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シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

連休だし、Amazonビデオのプライム会員で無料で見れる映画を適当に薦める

はじめに

Amazonのプライム会員になると、特典として、Amazonビデオの一部の作品が無料で閲覧することができるようになる。そこで、今まで見た映画の中から、「こういう映画もあるんだよ」というものをピックアップしていきたい。

ちなみに、これらのリストは、自分が今まで見たものである。そして、自分自身はそれほど映画に関して詳しくはないので、有名作品に関しては漏れがあることをお許し頂ければと思う。例えば、不朽の名作である「レオン」は、このリストから抜けている。「なんでこのリストにあの作品が無いんだよ」ということに関しては、このエントリに映画おじさんにブックマークでコメンドしてくれるだろうから、それを参考にして欲しい。

リスト

スミス都へ行く (字幕版)
 

  いきなり古い映画で恐縮だが、都知事選やら参議院選があって、「議会制に対する不信感」みたいなものがそことなく雰囲気として流れる我が国の中で、少くともアメリカの国でこのような映画が今でも輝きを放っていることは特出するべきだろう。田舎から呼びだされた、政治経験に疎く純粋なスミスはことあるごとに馬鹿にされながらも、不正に対して粘りつよく戦い続ける。この映画の素晴らしさは、いわば議会制への信頼であり、同時に、これが夢物語のように感じてしまう私たちの不幸を同様に表している。 

最強のふたり (字幕版)
 

  公開当初、散々話題になったので、あまり言うことがない。貧民で仕事の無かった男が、体が不自由な富豪の介護をするという話だ。そして、当然ながら、貧民出身であるが故に、それほど素行が良いわけではない。しかし、その「素行の悪さ」こそ、二人の距離を結びつけ、ことあるごとに冒険を行ったりする。この映画が心を打たれるとするならば、これが「障害者」の問題ではなく、当事者として、「私達と障害者」という関係性についての物語であるからだろう。

ベイブ (吹替版)

ベイブ (吹替版)

 

  いわゆる「もの知らず」の主役が最終的に奇跡を起こして逆転勝利するというのは良くある話で、これもそういう映画である。この映画では、動物社会でも役割が決まっていて、「豚は豚らしくせよ」という抑圧をことあるごとにせまられる。しかし、ベイブは「もの知らず」なため、それを理解することはない。しかし、同時に、いままでの動物とは違うやりかたで、「豚らしく」という枠を越えていく。その話はどこか、楽観的で放牧的なものを感じざるを得ないけれども、しかし、この映画が、一つの絵本とするならば、それもまた頷けるところだと思う。  

ノーカントリー (字幕版)
 

 実はコーエン兄弟が好きなのだが、コーエン兄弟ベストは『赤ちゃん泥棒』だと思っていて、最近ドラマ化されたという『ファーゴ』も嫌いではないんだけれど、『ビッグ・ブゴウスキー』にくらべたら、みたいなところもある。残念ながら、『赤ちゃん泥棒』はAmazonプライムにはない。そのなかであえてみるとするならば、『ノーカントリー』だろう。とはいえ、コーエン兄弟らしいあたかも意味深なギミックはどうにかならんものかー、と思ったりもする。

  レビューを見たら、これはエディー・マーフィの出世作で、なおかつ、こういったギャグまわしでやる刑事ドラマはあまりなかったそうだ。それはそれとして、今みると「うわ、これが1980年のアメリカなのか」というセンスでとてもニコニコしてみられる。この映画は好評だったようで、「2」も作られているわけなんだけど、この型破りの刑事が、頭のかたいデカたちとだんだん打ちとけていく姿は王道であるけれども、「これがエンターテイメントだな」と思わせてくれる。

  いわば人工知能を持つOSと冴えない男が恋をして……という話で、冷静に考えれば、これほど「キモチ悪い」設定はないのだけれど、それを上手く料理する手腕は上手いといわざるを得ない。あえて吹替版なのは、OS側として、林原めぐみが採用されていることもあり、これまたオタク殺しといえばオタク殺し。しかし、こんな変な設定をちゃんと恋愛映画にするんだから、すごいなとしか思えない。文句ばっかり言ってるけど、見ているあいだはとても面白かったですよ(なんのフォローだ)

エアベンダー (字幕版)
 

  映画というのは、別に名作ばかり見ればいいってもんではなく、こういう駄作を見るのも重要。調べた限りだと、元々はアニメーション作品だったらしく、また監督も『シックスセンス』とか作った監督らしいんだけど、パッケージからなかなか味わい深く、また中身も「うーん」と思うことが多い。戦闘シーンでのわざとらしいスローモーションとか、いまいち派手さのない技とか。最低映画としてのラジー賞を受けただけのことはある。とはいえ、微妙に楽しめるので、友達と見るのにはいい映画なのかもしれない。(フォローになっていない)あ、ついでなんで『地球が静止する日』もおすすめしておきます。この文脈で。

 アメリカではリアリティーショーとか言うものがあって、例えば知らない人たちを一緒に住まわせたり、あるいは日本だとラブワゴンだったり、テラスハウスだったり、あるいはそういう「生の人間のほうがよほど面白い」というのがあって、じゃあそれを一人の人生として放映したらどうなるの、っていうものである。多分、最初のうちはそういう「一人の人間をそうやって監視して楽しむのはどうなの、そもそもつまらなくね?」と思うのだが、終盤になるにつれて、だんだんと、「トゥルーマンショー」に引きよせられていく。そして、最後の「トゥルーマン」については、若干疑問が残るものの、人間は、最後まで自由を求める生き物であると考えるならば、それが《人間》なのかもしれない。

宇宙人ポール (字幕版)
 

 『ホット・ファズ(こちらもAmazonプライムで見れますよ)』や『ショーン・オブ・ザ・デッド』といった、ボンクラが輝く映画を撮らせたら右に出るものはいないであろうグレック・モットーラ監督作品。アメリカでいうところのコミコンに参加するUFOオタクの二人組が本当に宇宙人に出会ってしまって珍道中というわけだが、SFと青春ロードムービーが同居しているという感覚がとてもよく、おいらは好きだなあと思ってしまう。最後のドタバダみたいなまとめはご愛嬌として、ボンクラは必見の映画である(ボンクラでなければ見なくてもいいかもしれないけど)

 知人はこの映画があまり好きではない。考えてみれば学校でロックを教えるということ自体がロックなのかどうなのかという難しい問題が控えているし、知人は音楽をやっていたりするので、その嫌悪感はわからなくはない。基本的には無職のロックンローラーが勝手に教師に潜りこむことによって、授業ではなくロックを教えるという話である。この映画の題材になった教室もあって、それが『#028 ロック・スクール~元祖白熱ロック教室~ |「松嶋×町山 未公開映画祭」公式サイト』で、こっちのほうが面白いという話もあるので、是非みてほしい。

  いわば叙述トリック方式映画として一躍あげた映画。一度ではなく二度見ることが推奨されている映画だ。もちろん、あまり深読みしすぎても、泥沼にはまるだけであり、ただ一度目は「あー、だまされた」で、二度目は「あ、そういうことだったのか」という風に気を楽にして見ることをお薦めする。映画という装置を使った秀逸な作品。

スカーフェイス (字幕版)
 

   「今まで見た映画の中で二番目に好きな映画はなんですか」と聞かれたら、これをあげるだろう作品。ちなみに一番目は未定。だたのチンピラだった男が成りあがり、そして没落していくまでの話なのだが、いちいち渋い。特に「World is yours」の文字は痺れるものがある。 

  言うべきことはないだろう。人間には誰しも、一瞬だけ英雄になれる瞬間というものがある、ということを何よりも雄弁に語っている映画と言える。

 この段階でこれをお勧めすると、今さらのような感じではあるわけで、とにかくスタンリー・キューブリックの演出が秀逸。暴力シーンというか、生生しいシーンは多くでてくる。とにかく、暴力的に支配していた男が、政府の矯正プログラムによって、暴力をふるえなくなるという話ではあるわけなんだけど、映画といえば映像、というところでは、この映画はずばぬけている感じがする。

 アメリカ人が作る映画の一つに、アメリカのことを揶揄したがる傾向があって、これもそういう映画である。基本的にサンダーバード風の人形劇でパロディをやるといったところで、これを作った人が、あの『サウスパーク』を作った二人組なので、ブラックなネタが満載、ところどころニヤリとするところもあり。頭を軽くしながら笑うにはうってつけの作品であると思う。 

バッファロー'66 (字幕版)
 

  この映画好きなんですけど、語るとなるとどうしでも、という感じ。オシャレボンクラ映画というべきものだろう。とにかくどうしようもない男にレイラというかわいい女性がやってきて、人生を取りもどすという話で「そんなことあるかいな」と思うし、しかし、そこにつっこむというのは無粋なものだ。「そんなことあるかいな」を「こうことがあったらいいな」と思わせるこも映画の説得力なんだろうなという気もするのである。

 一度「水素水」で農作物を育てたくなる映画。とはいえ、水素水はだたの水だから普通に農作物育つよな……

 『バス男』という最悪の邦題で出されたけれども、Amazonでは原題に戻っていて、最高という気分になる。そして冴えない主人公にはダメな家族がつきもので、痛みをさそう。とはいえ、最後のシーンは感動せざるを得ない。ちょっとネタバレになるけれども、ナポレオンは、そのあとも、特に何もなく日常を続けていくはずだろう。しかし、それは以前よりも大切な日常であることは間違いないのだ。 

  リオデジャネイロのスラム街を舞台に繰りひろげられる、ギャング達の抗争。テンポよい映像と共に、月並になってしまうが、冷血非道なトップであるが故の孤独であったり、あるいは、それぞれの舞台となっている背景の小話など、見ていて飽きることがない。

 これを見て、なんかわからないけれど「ああ、これが映画だよなあ……」と思ってしまった。親戚と縁を遠くしていた男の元にいとこがやってくる。そして、そのあとに仲良くなったあと、じゃあバカンスに行こうということになるわけなんだけど、淡々とうつしだされる映像が匂わせる「すれ違い」というものの妙について、「ああ、そうだよな、これが映像なんだな」と思わせてくれる。

レスラー (字幕版)

レスラー (字幕版)

 

 主人公のレスラーはおちぶれて生活をしている。もちろん、その生活は悲痛であるわけなんだけれども、主人公の、不器用さ、つまり、レスラーとしてしか生きられない人生の傷ましさにというのを感じさせるをえない。その生きかたを外れようとしても、結局、その生きかたでしか生きられないということがあるという悲しい事実も、どこかに存在しているのだろう。

ヒックとドラゴンの最高な点としては、バイキングとしては貧弱な体系であり、いつも馬鹿にされている少年ヒックが、ナイト・フューリーという最悪と呼ばれるドラゴンを手なづけることによって、ドラゴンの調教師としての才能を発揮するという話である。よくもわるくも王道ではあるんだが、やっぱり「ドラゴンを育てる」というところと、ヒックを見くだしていたアスティという少女が、それを見て悔しがったりするあたりなんか、なんていうか、清く正しいアニメーションムービーなんですよ。ドラゴンがいるので星5つ(何がだ)

恋はデジャ・ブ (字幕版)
 

 ループものにはいろいろあって、基本的には邪道な感じになるけれども、そのループものというのをヒューマンドラマにしたてあげるところが秀逸。ループだからこそできる主人公の成長物語というか、改心物語なわけなんだけれど、でも半年もループし続けて発狂しないよな(するんだけど)、というところは感心してしまう。こういうのを見ると、「もし明日がこなかったら、今日は何をしようか」とも思ってしまう。

 これは…アイデアの勝利としかいいようがないですよね……

 かわったロードムービー海兵隊で盗みを働いたとする囚人を届けに、二人の兵隊が一人の青年を届けるのだけれども、この青年が変っていて、この青年に対してかわいそうだから、ある程度楽しみを与えるのだけれども……。自由の喜びをおしえることは、逆に不幸になってしまうのではないか、だからといってそれはそれで不正直ではないか……なんてことを考えさせられる。 

 最も最後のシーンが美しいロードムービーの一つ。天国では、海の話をするんだぜ。

最後に

最後らへんになったので、紹介も雑になったけれども、どれもおすすめなので、まだ見たことがない映画があったら見てみると幸いです。それではチャオ!

 

テッド(2012) ::「大人になるためには失わなきゃいけない」なんてデタラメ信じるなよ

 見終わった後に「ああ、俺の考えていたことと一致するな」と思う映画って意外と少なくて、でもそういう映画って変な方向からひょっこりと現れたりするから不思議なものだ。何はともあれ、そういう数少ない「一致するな」と思う映画がゆるふわ不良中年のぬいぐるみが暴れまくるこのテッドだったりするから、世の中不思議なものだ。

 この映画の主題は単純だけど明快で、要するに「大人になるってどういうことだ?」という、分かりやすいけれど、それでも近代や現代において迷走しやすいテーマを扱っている。で、ともすればこういう主題ってつまんない結論に落ち着いてしまう。それは、「子供のときの未熟さを切り離さなければならない」っていうあの恐ろしくて退屈な結論。でもさ、それって嘘じゃんっていうのをキッチリとわかって作っている。

 いやー、この監督もそういうやつらの顔付きにウンザリしていたんだろうなってのがビンビンに伝わって来る。あの手の人たちのつまんなそうな顔つき。アレはアレで「大人じゃねーよ」っていう感じは十分に伝わって来る。

 とはいえ、単純にじゃあ「未熟な自分を抱えたままでいい」と肯定しないところが、物語の(そして、もしかしたら「映画」の)いいところだ。物語には時間軸があって、そのために明確になる主題が一つだけある。それは「一度失ったものを取り戻すことは、それが最初から手にあるときと違うものである」っていうこと。これを伝えるのは、こんな感想文ごときじゃ難しいんだけど(そして実はジジェクとかがこの感想文の1000倍くらい労力を費やして議論していることだが、これは余談だ)、でもそれが「大人になること」の条件だっていうのは十分にわかる。

 この映画のいいところは、全ての登場人物にとって「大人になることというのはどういうことだ」ということを突きつけている点にある。もちろん、『フラッシュ・ゴードン』(感想文には書いてないけど、あれもくだらない映画だった)の役者はメタ的な位置にいるので(というより、彼はある意味で「彼の未熟さの象徴であると共に、大人になるために手放してはならない象徴」として描かれている。ちょっとネタバレになるけれど、最後の最後において、彼が「大人として」迎える儀式の一つに立ち会っているのは、彼がそういう象徴として描かれていることの証明でもある)、これは例外なのだが、だいたいがそういう「未熟さ」の現れとしている。

 だから、このぬいぐるみの所有者であるところの彼女の上司ですら、「高校生の頃からこうなのさ」という肯定感でしか生きられないということは、結局会社で成功していても、それが「大人ではない」ということが明確にわかる。むしろこういう嫌な上司がみじかにいたのかな。まあいいや。

 一瞬、この映画は「ははーん、これは80年代を埋葬するための映画なのだな」(フラッシュゴードンは80年代に作られた映画だ)と思うのだけれど、いい意味で裏切られた。むしろそうではなくて、ちゃんと80年代を大切に生きていった人たちに送る映画なのだな、と思った。むろん、俺は先に『フラッシュ・ゴードン』を見ていたから、なんとなくわかったけど、見ていない人にとってはなんのこっちゃ、みたいな置いてきぼりになる可能性は高い(たぶん、その置いてきぼり感が、あまりいい評価を得ていない部分でもあるんだろう)。

 とはいえ、そういう文脈をおさえることができるならば、この映画は「未熟さ」を単にばっさりと切り捨てるのではなくて、そういうのを大切にするということについて、一回その未熟さを手放して、さらにそれを「取り戻す」ことだ(この作業が大切なのだ)、ということを教えてくれる意味で、素晴らしい映画なのだと実感するのであった。

『ハピネス』(1998) :: 「隣人を愛することができるのか」という問いを突き付けるブラック・コメディー

 いやー、最高ですよ。しかし、この映画を最高だと言って憚かる人間とは決して友達にはなりたくないという複雑な思いをする映画でもある。心情としては胸糞が悪くなるけど「あれ、意外と悪くならないだけマシじゃね?」と思う意味で、こいつらは幸せなんだということにも気が付かされてくれる。えっ、だってもっとヤバい状態、いくらでもあるもの。

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 あと、基本的にヒューマンドラマを裏返すことによって成り立っているため、だいたい「ほわほわとしたラブコメ風BGM」というのが流れるんだが、そういうBGMが起きると、たいてい「あ、ちょっとまって、悪いこと起きるよね」という気持ちが段々と刷り込まれてくる。ホラー映画でも、何か起きそうなときにBGM流れるでしょ。ああいうBGMに聞こえてきて、良さげなBGMが流れると「やめてください!」みたいな気持ちになる。

 もういいや。ダイレクトにいっちゃおう。綺麗に言うと「孤独と愛」の物語である。しかし、この映画において「孤独と愛」と言ってしまうのはウソだ。だって別にこの登場人物全てに全く「愛」というのを感じられない。「愛」とは何かといっちゃうと「隣人を愛せよ」という、よく聞くあの一言に尽きる。つまり、この映画には不気味な程隣人が存在しないという不思議な構成になっている。だから、この映画は「性快楽」というものを剥き出しに書いている。

 もうちょっと露骨に言うと「オナニー」だ。だから、最後のシーンで何を暗示しているかはわかるだろっていうことだ。

 全ての登場人物について、「あ、駄目だ、なんか同情出来ない」という変なオーラがつきまとっている。それって何かなーって考えると、基本的にこの映画、「誰のために」みたいな価値観が不在しているんですよ。誰かを助けるとか、助けないとかいう感じがないわけです。だから、誰がいなくなっても気にしないし、殺されても気がつかないし、レイプされてもいいわけですよ。

 いや、細かく見ていけばあるっちゃあるんですけど、あとの行動によって「お前の私欲じゃねーか」みたいな、そういう風に「親切心」みたいなのが、単なる「性欲」に見えちゃうようになっている。これが嫌な気持ちになる原因。つまり、「現代人の孤独を照らし出している」ってしたり顔でいっても、「こんな奴ら、孤独であって当然では?」って思ってしまうような、「逆魅力」に満ちている。

 あともう一つ。この「自分のことの欲望を満たすだけ」というのは、実は「幸せになる条件である」という皮肉が透けている感じが印象深い。つまり、「誰もが自分の欲望を満たすこと」、つまり「身勝手さ」こそが、実は「ハピネス」なのだということを感じさせる。だって、誰かが人を殺したり、レイプしてたり、恋人に暴力を振っても、そんなことを気にせずに生きれるなら、そっちのほうが幸せだ。事実、この映画がハッピーエンドで終わるという事実こそ、不気味なくらいだ。

 そういう意味では、この映画が突きつけるのは、実はこういう感想を書いているときの「いい人っぷり」すら相対化してしまう威力を持っている。だって、精神科医が一番気の狂ったことをやるし(別に少年愛でもいいけど常軌を逸してる)、難民に仕事を教えようとする作家志望の女の子も「自分の身のことをまず心配したら?」と言われるのもそういうことだと思う。「お前、そんなこといってるけどそういうことが言える立場なの?」みたいな。

  だからこそ、最後にスタッフロールで高らかに歌うのだ。「Happiness, where are you? I've search so long for you」と!

『アメリカン・ビューティー』(1999) :: 自分たちが演じようとしているこの人生っていったいなんなんだ

 とても哀しい映画である。見終わると同時に、ぼろぼろと涙を流してしまった。恐らく、少し酔いながら見ていたせいもあるかもしれない。蛇足だけど、最近はときどきウィスキーを飲むようになったのだが、これは映画を見始めてからの影響かもしれない。

 『アメリカン・ビューティー』は、ある家族の物語である。話の中心は、その家族の父である。この父は広告の仕事をやっているようだが、いつも無気力で、娘と妻からはダメ呼ばわりされている。妻は妻で、不動産で家を売っているのだが、大手業者が入ってきて、思うように売れない。娘は、ちょっと悪い女友達と付き合っている。新しい隣人もやってくるのだが、隣人にやってきた男の息子は、その娘を盗撮したりしている。

 『アメリカン・ビューティー』の物語は、かなり不愉快なものである。例えば、先ほどいった、主人公に値する「父」は、娘の友達に恋をし、さらには欲情してしまう。それってロリータコンプレックスだよな、と思う。正直、若すぎる女の子に欲情してしまう性癖は仕方ないと思うものの、「抱ける」と思ってしまうところは「ちょっとくらいブレーキかけろや」と思ってしまう。

 また、隣の息子が、ずっとビデオを撮り続けるのも、病的なものを感じざるを得ないだろう。事実、この映画でも「サイコ」だと罵られている。

 ただ、この映画の不思議な点は、そういう、ふと「これって病的なのではないか」ということと、「これが健全なんだ」というのを反転させるように作られているということだ。どういうことか、というと、この映画における「健全性」とは、なんらかの抑圧によって作られているということをあぶり出そうとするからだ。うわ、精神分析的だね!

 正直、隣の男はあんまり社会的であるとは言い難い性格である。しかし、彼がビニール袋をとったビデオを娘に見せるときに語るセリフが印象的だ。ここは、僕の好きなシーンなので、転載してみる。ちなみに、そのセリフとは「それぞれのモノには生命と慈悲の力があって、何も恐れることはない。美しいものに溢れていて、僕は圧倒される」という言葉だ。

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 うん、俺もビニール袋をつい撮影してしまう人間だからわかる!でも死体はあまり好きけど!

 あと、もう一つとして、娘の友達に恋をし始めたときに、父が「俺の人生、こんなんでいいんだろうか?」と奮起し、周りの言いなりであったところに、ちゃんと自分のやりたいことを押し始めるところは、それを素朴には肯定はできないが、しかし「それはそれでありかもね」と思わせる。いつかは死ぬわけだしなあ、と思うし。

 さて、この「病的」に対応する「健全」とは何だろうか。それは恐らく、「娘の母」と「息子の父」だろう。「娘の母」は、一生懸命自己啓発の音声を聞き、成功者になろうとする。そして、娘にも「最後に頼れるのは自分だけ」という。しかし、この映画を通して、この「母」はとんでもなく孤独な存在であることを明らかにしている。つまり「成功者はこうであるべき」というイメージのせいで、逆説的に自分自身を追い詰めている。

 「息子の父」もそうだ。息子に対し、折檻を行い「自己構築と規律が大切だ」ということを教える。そして、ゲイは最悪だということを教える。しかし、この行動自体もまた「自分がこうであるべきである」ということによって抑え込んでいる何かであることは明らかだ。

 だから、最後のシーンにおいて、誰が何をするのかということを追いかけるといい。見事にこの「病的さ」と「健全さ」が反転するのが最後の展開であることは間違いない。病的な人間のほうが明らかに良心的な行動をするのだ。そして、健全であるはずの人間が、明らかに異常な行動をし始めるのだ。僕たちは病的な人間に対して、病的な振る舞いを期待するが、必ずしもそうではない。(とはいえ、世間一般的にはそう思わせるんだけどね)

 たぶん、この映画は「アメリカとは何か」「家族とは何か」という問いと一緒に語られるものであるかもしれない。しかし、むしろこの映画が教えてくれるのは「健全であろうとすることによる代償とは何だろうか」ということである。 僕自身も、自分に対する理想像は高いほうなので、結構自分がボンクラであることについて、すごく落ち込んだりすることもある。しかし、その「理想像」によって、何を失っているのかは考えてもいいかもしれない。

 しかし、だからといって「自分らしくあれ」ということは全く陳腐である。なぜなら、「自分らしくあることの代償」を、息子と父はそれぞれ「自分らしくあろうとすること」によって代償を支払わされていることも示唆しているからだ。だから、その点においても、この映画は風刺的であると同時に、誠実であるように感じられる。

 そして――もし、これが、俺の父の感じていた孤独ならば、俺は少しだけ父を許せるかもしれないなと思う。もちろん、俺の父は日本人だけどね。

『スクール・オブ・ロック』(2003) :: 学校で教えてくれる良い子のためのロック講座

 あー素晴らしい。素晴らしすぎる。このレビューも泥酔しながら書いている。つーか、そういう泥酔勢いでレビューを書くべき映画なのだ、これは。 

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 この映画は、「お堅いエリート進学校」に、家賃も払えなくて困窮したロックバンドの人が入り込んで生徒たちにロックを教えるという映画である。正直、子供たちがロックをすんなり理解しているのはどうなのか(だって、親にチクる子供もいるでしょ)という部分もあるけれど、でも、そんな細かいことはどうでもいいんだよ、ロックしろ!という熱にあふれている。そもそも、家賃が払えないから教師を騙って、しかもエリート校でロックを教えるというところが、すでにロックである。

 ロックとはいえ、しかし障害らしい障害はあまり存在しないというのが正直というところで、トントン拍子という印象は否めない(つまり、都合の良さがある)が、しかしそれは細かいところであるともいえる。映画として面白いかどうかということである。

 この映画の面白いところは、そもそも優等生もロックバンドも同じようなものだということに気が付くことだ。例えば、この偽教師のロッカーは、学校で成績のランクをつけていることに反発を覚えているが、しかし「俺たちが最高のロックバンドだ」ということを目指している。「最高」ということは、つまり、周りを制してトップになるということだ。トップということは、頂点だからだ。

 もう一つ、このロックを教える偽教師も、最初は私利私益であることは間違いない。が、ちゃんと教師としての成長も伺える。教師の役割というのは、生徒の欠点を励まし、そして生徒の頂点に対して伸ばしていくということだと思う。でね、この生徒達って楽器が上手いかというと、それうではないんだけど、最高に乗って励ましてあげる。そうそう、こういう役割だ。

 ただ、映画として面白いのは、「教師のペットになりたければ夢を諦めな」みたいな歌があるんだけど、このロッカーの素晴らしいところは、まざまざと夢を語るところなんだよね。逆なんだよ。夢を見させているんだよね。「ここでドライアイスだ」というセリフなんかは、まざまざにステージの様子を語る。そして、ロックとは楽器を演奏している人達の為にではなく、警備であったり、コーラスであったり、マネージャーも立派なメンバーである。つまり、全部が重なってロックというのが生まれる。そういう姿をまざまざと見せるのは「カリスマ」に相応しい仕事だ(最近だとヴィジョナリーとか言うんだっけ?)。

 そして、細かいところも見逃せなくて、生徒会長はグルービーが嫌だって言われて、「お前は特別だから」ってマネージャーにする感じも、「うわー、こういうプライドは高いけど、音楽的才能がない人の扱いに無駄に長けている」のがいいなと思う。

 そして、もう一つ重要なことがある。「才能がある」ということと「才能を発揮すること」は違うということだ。というのは、本人に「才能があった」としても、それを行使してもらえないと、その才能は埋もれてしまうからだ。そして、このエリート校の生徒達は、「自分なんて……」という自己否定によって「才能」を出さないようにしている。僕自身は、やってみないと、その才能がわからないからやってみているというのがあるけど(この映画感想文もそうだ)、しかし考えてみれば、恥をかくこと、減点法的に評価されることに慣れてしまったなら、才能を出すことができないのだ。これは、一つの「良い子」の問題でもある。悪い子は褒められたらそれだけ記憶して、悪いとこrは忘れるものだ!

 あともう一つの主題として、「ロック」というのは音楽ジャンルとして語られていないということだ。いや、音楽ジャンルの一つなんだけど。しかし、もっとプリミティヴ=原始的な怒り、不満、気持ちを表現することが重要なんだと思う。それは、例えばジャンルを異にするけど、『サイタマノラッパー』も、ラッパーとしての夢が失われたときに、本当の気持ちを歌に乗せるという構造がある。つまり、金にもならないし、誰にも聞かれないけど、俺の気持ちを、目の前のお前に伝えたいという気持ちがあるのだ。

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  さらに言うと、誰しもロックだったときがあるというのも伝えている。ロックだったときというのは、反抗期のことである。少なくとも、ビートルズが不良音楽と言われているとき(今じゃ教科書に載っているけど)に思春期だった人たちのことも書いている。それは、大人の事情であり、妥協であるんだけど、でも「三つ子の魂百まで」ということである。だって、大人になったって完全に不満を取り除けないし、酒飲んで愚痴ったりするわけでしょう? そういえば尾崎豊『卒業』もそういう歌でしたね。

ALL TIME BEST

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卒業して いったい何解ると言うのか

想い出のほかに 何が残るというのか

人は誰も縛られた かよわき子羊ならば

先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか

俺達の怒り どこへ向うべきなのか

これからは 何が俺を縛りつけるだろう

あと何度自分自身 卒業すれば

 

本当の自分に たどりつけるだろう

 さて、この映画での「ロックとは何か」、ということをどういう風に伝えているかを考える。もちろん、自分が考えるのは、「生き様」という言い方もできるし、「音楽ジャンル」とも言える。しかし、たぶんこれは「生きる技法」なのだ。つまり、ちゃんと不満をいい、気持ちを吐き出し、自分の背一杯の力を出す。ロックも、ヒップホップも、最高でクールな音楽を作りたいという気持ちもあるんだけど、そもそもそれが最高にクールになるのは、それが「言わずにはいられない」というギリギリの部分にあるからだ。そして、それは音楽で稼げなくてもいいのだ。

 だって金は別に稼げるのだ。簡単に稼げるとは言わないけれど、でもお金よりも自分たちが満足していける形でちゃんと生きていくということのほうが余程難しい。それの解答は誰も教えてはくれないだろう。つーか、正解そのものがないのだ。僕たちができることといえば、陳腐になるけど「これが正解だった」ということを信じるしかない。

 しかし、そのスタイルが一つ身に着いたら、生きる糧になるだろう。それが何の得になるかは知らんが、しかし「支え」になるものである。っていうか、クラシックだって、当時にすればかなりパンクな音楽もあり、サイケデリックなんだけど、小難しい顔して聞いてるに過ぎないのだ。

 最後に、背一杯ロックの魂を伝えることで、このロッカーの教師よりも、ロックになっていく。ロックも、ヒップホップも、音楽も、そして映画も、何よりも「生きていること」の肯定なのだ。そして、その肯定こそ、全てを「ダサかっこよく」してくれるのだ(ダサいのは認めよう、でもかっこいいのだ!)。ちなみに、バッドエンドとか「勝つ」ことが、生の肯定ではないからな!

 で、このレビューで「あ、面白そうだな」と思ったら下の本を買え!

  あと、この映画の元になった学校のドキュメンタリがあったらしいんだけど、配信されて終わったまま、終わりっぱなしになっているから、もう一度再配信しろや!!!つーかせめて何かの動画配信サイトで公開しろや!!!

『俺はまだ本気出してないだけ』(2013) :: 俺はただ自由ではないだけ

 

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 自分は、どちらかというと、ホラーやスプラッターよりは、コメディのほうが好きな人間である。特に「ボンクラ」ものが大好きである。それは自分がボンクラであるという意識と、それに対する言い訳の為でもある。正直、生き方としてはパッとしていないことは十分承知で、「いや俺はまだ大丈夫だろう」というような、そういう慰めをして日々やり過ごしている。

 変な話、『俺は本気を出していないだけ』という映画は、そういう「ボンクラ」の嫌な面を強調しているといってもいい。中年になって、急に仕事を辞めた男が、漫画家になるための夢を見て、バイトをしては新人に怒られたり、「俺は天才だから」という根拠のない自信(これ、要するに自信がないことの裏返しであるということは可能なんだけど)によって、周りの人に不愉快な気持ちにさせたりするような感じの映画だ。

 基本的には、彼の自由な生き方に対して、周りの人たちが共感し、自分たちもやりたいことをやってみようという気持ちになる、という物語だ。

 正直なことを言うと、この映画には、いい点と悪い点が二つがある。まず一つに、この主人公は、ちゃんと「漫画を仕上げて持ち込みに行っている」ということだ。自分も漫画家志望だったことがあるのだけれど、そもそも雑誌の規定に合わせて漫画を描くという行為自体が、非常に手間のかかることであることは疑いようがない。大口をたたいているけれども、ちゃんと「作品を仕上げる」という努力自体は認めてもいいんじゃないんだろうか。そこは素直に好感が持てた点だ。少なくとも「ボツです」というその言葉の威力というのは結構ある。

 この点については、漫画家になるための努力というのもわかる。とはいえ、悪い点というか気になる点もある。些細な点としては、「あんな下からの見上げるようなアングルのコマを不自然なく描けるのって、そこそこ漫画が上手いってことだよね」ということはできる。しかし一番大切なところとして、「なんでこの主人公に惹かれるのか」といった部分がよくわからない、というのがある。

 たぶん、これは二つの言い方ができる。単純に、僕がこの主人公に対して同意できないという趣向の問題になると思う。もう一つは、実は典型的に「なぜこいつのことを好きになるかわからない」という作品がある。それはいわゆる、エロゲーと呼ばれる、18禁の美少女ゲームだ。美少女ゲームにおいて、主人公がなぜその主人公が好きになるのかというのは世界七不思議のひとつでもあったりする。

 そういうおちゃらけはともかくとして、そういう無意識の欲望みたいなの(楽して誰かに愛してもらいたいよね)という部分を、ある程度は反映している。例えば、最後の、この漫画家志望の男と、その娘が仲良くなると思わせるシーンというのは、つまりそういうボンクラの欲望的な部分を刺激しているし、そもそも、持ち込みしている編集者が彼を誉める理由もよくわからなかったりする。

 厳しいところもちらほらあるのだけれども、しかし、大切なのは結果として「俺は本気を出していない」というのは、実は多くの人々が「俺は自由ではないだけ」という側面としてありうることを示唆しているということだ。つまり、自分は自由ではないから、という諦めの上に成り立つ何かなのだ。そして、「俺は本気を出していないだけ」と言い訳しているのは、主人公ではなくて、実は我々の言い訳なのではないかと思うこともあるのだ。

『ダークナイト』(2008) :: 既に古典的になりつつある現代的なヒーローの主題

 

ダークナイト 特別版 [DVD]

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  ヒーローの定義自体は、人によってそれぞれだと思う。けれども、たぶん一般的には、ヒーローの定義というのは「善きを助け、悪を挫く」という一文に現れると思う。以前ならば、そのような二項対立で良かったのかもしれないけれど、しかし「悪にも悪なりの言い分があるのではないか?」という問いが出現した。そして、さらにいうと、「そもそも僕たちが規定している悪とは何か、そして善とは何か?」ということを、少なからず考えなくてはいけなくなったように感じる。少なくとも、この問いを迂回するヒーローというのは、余程「おバカな(もちろんほめ言葉)」作品でない限り、欲求不満になる気がする。そして、「善いとは何か?悪とは何か?」という問いは、もはや古典的なヒーローとしての問いのような気もする。それはどんな娯楽作品であったとしても、だ。

 そういう意味では、『ダークナイト』というのは、普通に楽しい映画である。何しろバンバン殴ったりするし、バンバン爆破する。そしてカッコいい機械、そして魅惑的な悪役。どれを取っても、「これがエンターテイメントだなあ」という気持ちに溢れると同時に、「悪とは何か」という問いにも満ち溢れている。それは、逆説的に「善とは何か」について照らし合わせる鏡になる。それは、単なる「悪と善」という対立に飽きてしまった人々にとって、大切な問いだ。

 僕はそれほどバッドマンシリーズのことを知らない。というよりほぼ知らないといってもいいだろう。単純に「あれ、そういえばロビンっていう奴、この映画ではどこにいるだっけ?」くらいの知識である。バッドマンは、昼間には活躍せず、夜に活躍するヒーローであり、日々悪事と戦っている。しかし、この映画では、その強靭なるヒーローに、まさに狂人を思わせるヒーローが現れる。それがジョーカーだ。

 題名が物語っているように、一つのベクトルとして「昼と夜」の対比がある。バッドマンは、その正体を明かすことができない。というのは、「バッドマン」の「善さ」というのは、全く手続き的には正当なものではないからだ。最終的に「悪」を倒すとはいえ、それは社会的に見れば「私的な暴力の行使」に過ぎない。従って、正義感の若き検事が現れたとき、「光のヒーロー」がいれば、バッドマンはいらなくなるというエピソードが出てくる。

 もう一つ重要なのは、「信用する」というキーワードが出てくるということだ。実は映画を見ていて「ジョーカー」がなぜルールを守るという確信を持っているのかという確信が、正直わからないけど、人間というのはそういうものだろう。というより、このあたりが実は重要な仕掛けになっていて、「ジョーカー」が言うことが、そもそも「ルールを守る」という心理を逆手に取っているといってもいい。だから、もし二回目を見るときは、ジョーカーの立場から見るのも面白いかもしれない(ちょっとだけネタバレを含めるけど。最後のスイッチをもしどちらかが入れていたら何が起きたのか考えるのは面白いだろう)

 あともう一つとして、ツーフェイスの存在もあげられるだろう。この存在が余りにも唐突であるように感じられるというのもあったけれど、「光と闇」には、必ず夕方と朝という中間的な存在があることを示唆している。そもそも、ジョーカーが示唆しているのは、「悪と善というのは、実はお互いに共存している」という状態なのではないかということだ。事実、ジョーカーが突きつける言葉は、バッドマンがいるからこそ、悪が際立つということを示唆している。

 影を作らないように光源をあてることができないように、強烈な光のところには、強烈な闇が存在している。もちろん、この比喩を善と悪についてそのまま適用することはできないだろう。しかし、そのような印象を与えるこの映画は、それによって、娯楽的な楽しみを満たすと同時に、話にコクを与えているのも事実だと思う。