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シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『ノーカントリー』(2008) :: 理解できぬなら、去れ

 

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  話の筋としては、マフィアが持っているお金を盗んだが故に、殺し屋に付け狙われる男の物語である。それだけなら、それほど印象的な映画ではないのだが、何が恐ろしいかといえば、殺し屋の造形である。片方は空気銃のようなもので、どうやら映像の中でも「牛を殺すもの」という説明がされる。この変な平気で、鍵をプシュと破壊してまわる。これがすごくかっこよくて(同時に怖いんだけど)、部屋のドアを見ては「あ、ここをプシュとすれば取れるな」みたいなことを確認してしまったりしていた。

 この映画の感想で割れてしまうのは、そもそもこの「殺し屋」は一体何を示しているのかということだ。コインゲームによって、相手を殺すか否かを決めるこの殺し屋の行動の理解は、確かに意味不明であるのだが、この映画の印象的なところは、いわば老いた男達が「最近の犯罪は理解できない」ということを嘆いているシーンがある。この映画のもともとのタイトルは、「No Country for Old Men」、雑な感じだと「古い男の国なんざない」という感じになるのだろうか。英語力がないので、あまり自信がない。

 この殺し屋が象徴するものは何か、ということに関して、自分が目星をつけたのは、一つの点だ。それは、殺し屋の武器に関する説明である。あるシーンで、牛の殺し方が代わったことを説明するシーンがある。もともとはライフルで殺したりしていたのが、いつのまにか殺し屋の武器になったということを語るシーンがある。そもそも、牛を殺す方法にしたって変わっていくものだ、ということだ。

 この映画の、副次的なテーマとして、「理解できないものの恐怖」というのがある。確かに、殺し屋の方法は理解ができない。なぜ、彼はコインの裏表によって、相手の生死を決めるのか?というのは、この映画の感想を語る上において、重要なファクターになっているように感じる。そして、普段接する上において「理解できないものは何か?」という問いを考えたときに、一つありうるのは「時代」である、というように感じる。でなければ、最近の犯罪が理解できないということについて、あれほどまでに時間を割かなくてもいいのではと思うのだ。

 「時代の変化」というのは、確かに歓迎するべき側面がある一方で、自分の知識を過去に洗い流し、ゴミにしてしまう側面がある。例えば、この殺し屋が述べる「お前のルールには意味があるのか」と問う。ルールを規定するものは、何らかの時代であるということも可能だ。そのルールを守ること自体が、実は窮地に陥ってしまう可能性が高いということを示唆している(なぜ、ビジネス自己啓発書で「変われ」ということが強迫観念のように繰り返されるのか)。

 もう一つ、殺し屋のモチーフになっているものについて、一つ可能性があるものの存在に気が付いた。実はこの映画を見たあとに『ダークナイト』を見ていたのだが、「あれ?」と思ったのだ。なぜ、「あれ?」と思ったのかといえば、コインの裏表で、相手の生死を決定するキャラクターが出てくるのだ。もちろん、『ダークナイト』の製作のほうが、あとであるけれど、バッドマン自体は、アメリカの作品として、長く続いているものだ。もちろん、偶然の一致かもしれないけれど、しかし、「新しい悪役像」として、そういうキャラクターの存在がいるということについて、非常に気になったりした。

 そして、最後のシーンで語る話も示唆深い。直接の話の進展には関係しないから、微妙にネタバレをしてしまうが、最後に「先祖が歩いた道を我々が歩く」ということを述べている。「絶対的なもののように感じられたこと」は、いつかは終わりを告げる。それは、実は殺し屋が最後のシーンで出くわす事故も、彼自身の絶対的な力なるものが、決して絶対的ではないことも示している。

 「ノーカントリー」は非常に「寓話的な作品」という意味のほうが強いように感じる。そして、この寓話なるものを読みとるというのは、物語の快楽というものを十分に味わえる。これは自分の感想なんだけれど、色々な人の感想を同時に聞いてみたくなる、そういう不思議な作品であることも間違いない。

『デトロイド・メタル・シティ』(2009) :: 音楽を描写することの難しさについて

 

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  そもそも、映画に限らず、何かの作品で音楽を描くということは難しい。実際、例えば現代漫画表現論としても、ハッとした指摘を行う『サルでもわかる漫画教室』でも、そのことに対して言及がされている。

 

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  話の筋としては、もともと「オシャレ下北・渋谷系みたいな音楽がやりたかった青年が、いつの間にかメタルバンドで成功してしまったけれど、そのギャップに悩み続ける」という話である。そして、この作品には二つのテーマが共存している。すなわち、「自分が求めているような才能ではなく、別の才能を与えられたときに、そのギャップをどう埋めるのか」という問題であり、そしてもう一つは「そもそも誰かに対して歌うということはどういうことなのか」という問題である。この二つのテーマに対して、どういう風にバンド、さらにいうと音楽として決着を付けるのかという問題が出てくる

 正直言うと、まず一つにこの映画って、そもそもバンドのリーダー的存在であり、ヴォーカルの青年のキャラクターの、その二重生活の滑稽さに目線を合わせるのか、そもそも日本におけるメタルシーン、あるいは音楽シーンに目を向けるのか、ということで大分代わると思う。しかし、最後のシーンになってもらえればわかるのだけれど、彼の葛藤を解決するためには、「音楽とは何か」みたいな、そういう問いになるはずだ。

 具体的に言ってしまうと、たぶん落ち込んだりした時にかける音楽であるとか、あるいは元気はつらつとするために聞く音楽というのがあるはずだ。それは「生活としての音楽」という側面があると思うんだけど、この作品では、そのあたりがいまいちよくわからない。つまり、ファンにとってそもそも彼ら「デトロイド・メタル・シティ」という音楽がどう生活においてかかわっているのかがピンとこない。いや、一応なんかそういう手紙が届くシーンはあるんだけど、でもそれが描かれないので、この青年が「バンドどうしようかな」と悩んでいるときの解決に、「えっ?」とも思う。しかも、それが解決において大切な問題であるはずなのにも関わらずだ。

 つまり、変な話なのだが、この作品において、もし「青年の自意識」というものに焦点をあわせるのではなく、「音楽が解決する」という話であるとするのならば、むしろ丁寧に書くべきなのは、彼らが接している音楽というものの筈だ。しかし、この作品において、ギャグパートとしてあるのは、青年の自意識的な部分である。とするならば、変に音楽に絡めなくてもいい筈だし、その解決は自意識の部分で解決するべきものだったのではないか、という気がする。

 厳しいことを書いてしまったかもしれないけれど、つまりこの映画というのは「ミュージック・コメディ」として見ると厳しいものがあって、「若者の青春映画」として見える必要がある。つまり、「青年の自意識が成長していく過程として、音楽はあくまでも踏み台でしかない」という話なのだ、という風に割り切ってしまう必要がある。

 とすると、見るべきなのは、「自分が望んでいる姿と、自分が望んでいない姿のギャップを乗り越え、そこから自分が望んでいない姿を受け入れていく物語」が中心になってくる。だから、音楽にこだわる必要はない。そして、逆説的に「音楽というのはそれほど重要ではないんだよ」ということを教えてくれるという意味では、逆説的に「音楽の姿」についても浮彫にしているのかな、という気分にもさせられてしまった。

『マルタの優しい刺繍』(2006) :: 美しい映像が逆に地方共同体なるものの気持ち悪さを映し出す

 

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  「老人に優しくしているか」と問われると口ではそう言うものの、実際のところはそう上手くいかないどころか、厄介扱いをしたいと思っている。実際、「姥捨て」という物語が生まれるということは、それほど綺麗事のように現実が動いているわけではなく、何処かで邪魔になっているということを明確に暗示しているということだ。

 この映画では、老婆が昔やりたかった下着ショップをやるという映画なんだけど、これ本当に男性にはわからない感じになると同時に、女性だと「ああ、わかる!」という感じの舞台装置がとても面白い。少なくともわかる割合としては、男性より女性のほうがわかるという感じになっていると思う。そしてね、この老婆達がさりげなくオシャレなんですよ。

 男である俺が言うのもなんですけど、いわゆるセクシー下着と呼ばれるものと、カジュアルなスポーツブラって、全然役割が違う。例えば、男性だと肌色のスポーツブラを嫌う人がいたりするらしいんだけど、そういう見方こそが、そもそも下着というのが「自分が自分のためにかわいく聞かざる装備品」だってことを忘れていたりするわけですよね、みたいな話をしたで読んだりしていた。

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  で、さらにいうと、これは地方が舞台になっているんだけど、変な話、「地方共同体」の気持ち悪さみたいなのもちゃんと描いている。悪玉は焦点があって、老婆の「出来の悪い息子二人」という作りになっている。片方は政治家で、牧場経営している人と、もう一人は牧師という組み合わせ。牧場は劣化するし、しかも牧師は牧師で不倫しているというわけで、ちゃんと「あ、こいつら駄目だ」と思わせる演出も巧みだ。

 あと、この美しい映像が、さらにそういう「牧師と党」というわけのわからないものによって、抑圧的に存在していることもわかる。だって、演説できるのは彼らくらいで、彼らこそがいわば世論を作っているわけなんだけど、これがね、また嫌なんですよ。自分は地方から東京に出てきた人間なんだけど、要するに「お前はそもそも何もしてはいけない」って迫ることの何かね。それは小さい共同体だから仕方ないのかもしれないけど、出る杭はつぶすみたいなそんな感じ。

 そういう「駄目な若者」を描く一方で、チャレンジする老人を描いているところも面白い。それは結局年齢ではない、ということを描いている。そして、一つの見方として、「チャレンジする老人」がオシャレであることを考えると、実は地方では「美しくなる」ということそのものが、挑戦的な態度であるのではないかという、そのようなことにも気が付いたりする。

 舞台に相応しく、変化そのものがおだやかに流れていくし、結末も劇的なものではなく、非常にこじんまりとした終わりであるように見える。だけれども、この映画が持っている「老人・女性・地方」なるものの、この不遇さについて向き合っている感じがあるというのもあって、とても挑戦的でいい映画だなと思いながら見ていた。

『ファニーゲーム U.S.A』(1997) :: 自分を映し出す鏡としての映画

 

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  『ファニーゲーム U.S.A』は、平穏な三人家族に対して、殺人鬼がやってくるというもの。この映画は、ダイレクトに暴力シーンは描かれない。殺されるシーンや、痛みを与えるシーンは丁重に「画面に映らない」ようにしている。

 ファニーゲームは、よく言われるように「メタ・シネマ」の性質を持っている。「メタ・なんちゃら」は「自分自身に言及する作品」という形で使われることが多い。例えば、「メタ・フィクション」ならば、「フィクションに言及したフィクション」だ。なぜこの手法が使われるようになったかといったら、物語とは「お約束」を無意識になぞるものだからだ。もちろん「お約束」は、その「お約束」であるからこそ、安心して見られたり、あるいは作品に対して快楽を得ることができる。

 とはいえ、例えば「ファニーゲーム」は、サイコホラーというジャンルなのだということができるだが、そもそも、そのお約束が明確に僕たちが自分たちの持つ暴力なるものについて「反省しないこと」を可能としているし、そもそもいちいち「その暴力表現を楽しんでいる僕たちは、そもそも殺人鬼と変わらないかもしれない」みたいに不安を煽ってはならない。だから、普通なら、ディスプレイの向こう側で人を殺している人間と、僕たちは別物である、という風に意識させるような作りになる。それをどうふうに外していくかというところが面白さでもある。

 しかし、最近の作品を見ていて気が付いたのは、そういう「お約束」を述べる作品というのは、お約束を踏み外しながら、そのジャンルが望むような役割を果たそうとしているということだ。ホラー映画の役割とは、そもそも「人を不愉快にする」ということであるとするならば、この映画では「お前はどう思う?」という、いわば事件の当事者にされることであるということだ。だから、僕が見た限りでは、二つのシーンで、犯人が視聴者に対して話しかける(明確に僕たちに話しかけるように描写しているのだ)。また、映画が「記録装置」であることを利用した演出も用意されている。

 もう一つ述べておこう。この映画の犯人の異質さに言及するとき、そもそも何かの事件に対して「理由」を求めているということだ。これはネタバレになるけれども、象徴的なシーンとして、片方がどういう境遇かの作り話を言うシーンがある。それはそもそも、殺人において「気がくるっていた」という理由において事件を納得させるという仕組みをうまくついている。例えば、ポルノにしても、なぜか最後でラブラブになるというオチが着くやつがあるのもそういうのだ。

 そして、もう一つの悪意があるとするならば、そういう「理由のなさ」こそが、僕たち視聴者が、その作品を接するさいの「鏡になる」ということだ。つまり、この不愉快さの根源を突き詰めようとしたときに、抱いている偏見なるものもあぶり出されてしまう。事実、「ファニーゲーム」の感想ブログを見たときに、見事なまでに、各人の「見方」というのが反映される。そして、それは実際のところ三面記事を見て、ワイドショー的にあーだこうだ言う私たちの醜さと鏡になっているということができる(ほら、さっそく俺の偏見があぶり出されてるでしょ?)。

 もちろん、この映画がそもそも「ホラー」というものが、お約束の連続になっているということを皮肉ったものでもあるという言い方ができるが、この映画が秀逸なのは、その「お約束」こそが、心理的な防壁になっているということを実感としてわかるという作りになっているということだ。そして、その「心理的な障壁」を取っ払ったとき、真の意味での不愉快さみたいなのが露出する。そこに、真のホラーがあるというわけだ。

『許されざる者』(1992) :: 暴力のかっこわるさについて

 いやー、びっくりするほど面白かった。

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  話の筋としては、ある売春婦宿で客が暴れるという事件が起きた。保安官は、それを仲裁するものの、売春婦の気は収まらない。そこで、復讐のために賞金をかける。その賞金に目を付けた若いガンマンは、老いたガンマンを誘って、その賞金首を殺しに出かけるという話だ。

 とはいえ、この話が「あれ、不穏だなあ」と思うのは、その出だしからだ。というのも、いつの間にか、賞金首にかけられた理由として、「バラバラに切り刻まれた」という話になっているからだ。そこで、「なんて酷い奴らだ、殺されて然るべきだ」みたいなことで怒るのだ。あれ、まったくもって誤解じゃないかみたいな感じになる。とはいえ、この映画で重要なのは、このフレーム自体が、誤解と見栄によっているということを明らかにしている。

 事実、もう一人の賞金稼ぎが町にやってくるときに、作家を連れてくるわけなんだけれども、そこに書かれてある事実自体、括弧よく射撃して打ったものではなく、むしろ何らかの事故によって、たまたま勝利したことが明らかになっている。 また、若いガンマンも「自分は冷酷な男なのだ」ということをアピールするのだが、あとになって事実が判明するのだが、これもしょぼい話である。

 また、この街を統治している保安官も酷い奴だということが段々とわかってくる。この保安官は、町に入る賞金稼ぎに対して、銃を収めるように要求するのだが、そもそも自分が気に食わない奴に関しては徹底して痛めつけることしか考えていない酷い奴だ。でも、ロサンジェルスの警部とかこんな感じなのかなーとか思ったりもした。どちらかというと、抑圧的な統治方法とでもいったらいいのかしら。

 自分なりに焦点を合わせるとするなら、実は、これは物語における暴力なるものがどういうものかということを考えさせられる。当然なんだけど、物語において、人を殺したりするシーンというのは、こういっちゃ悪いけど、それこそスッキリとしたものだ。それは簡単に言ってしまえば、カタルシスのせいでもあるのだが、実際はそんなに簡単に人を殺せるものではないし、殺したとしても、何らかの罪悪感が残るはずだ。それこそ、普通の人であるならば。それは昔でもかわらないだろう。

 そこでたぶんこの映画では一番実績のある主人公が過去のことを思い出して震えるシーンがあるんだけれども、それはこの感想を書いていたときに、「ああ、あれが人を殺したというところに起きることなのかもしれないな」とも感じたりした。だからこそ、最後に銃を取るシーンに、逆説的に覚悟として感じた。

 とはいえ、単にそれらが惨めなまま終わるわけではなく、ちゃんとカタルシスを用意してくれているのもよい。最後、どうなるかはこの映画を見ていただけれはわかるんだけど、そういう西部劇のお約束っぽいことを裏切りながら、ちゃんと西部劇として到着するあたりが、ちゃんと面白い。

『レスラー』(2008) :: 「レスラーとしてしか生きられない」ということ

 

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  自分の父親が、大のプロレスファンで、いわゆるプロレス雑誌なんかが家に転がっていた。そんな親で育ったのだけれども、自分はそれほどプロレスは好きではなかったし、それほどファンではない。要するに、自分には交わらない軸みたいなもので、さらにいうとこの映画の血みどろのシーンとか「あっ、痛い」と思うくらいには、そういう血まみれの表現も得意なほうではない。だから、変な話、この映画で出てくるレスラーのことは殆どわからない。しかし、この映画は、それこそ痛いほど決まってしまった映画でもある。ここで、気の利いた技名でも出せればいいんだけど、そういう最低限の知識も、実はないし、そういうのとは関係なく楽しめた。

 映画の筋としては、貧乏暮らしをしながらレスラーを稼業としている男が、長年の無理がたたってか、体をボロボロにし、レスラーが出来ないまでに追いつめられるというのが大方の話である。

 端的に言ってしまうと、このレスラーは良く言えば不器用であり、悪く言えばダメである。まず最初から家賃を滞納して部屋から締め出されるところが描かれている。パートタイムとしてスーパーで商品の搬入をしている。ダメとはいいがたいけれども、娘とのやり取りを見ると、お金を借りたといったようなこともあったらしい。ただし、このレスラーは、いわゆるプロレスの中でスターであることは疑いようがない。そして、レスラー仲間のなかでも厚く信頼されている。しかし、一歩外を出ると、娘から見放され、パートでお金を稼ぎ、そして家賃を滞納し、ストリッパーに恋する、という感じだ。リング上では、ヒールを演じてもらい、それを退治するヒーローを演じているわけだが、リングを離れれば、むしろどちらかといえば、ポンコツなのだ、ということを意図させる演出だ。

 ちょっとネタバレになってしまうけれども、ポイントは二つくらいあると思う。まず一つに、実は意図的にリングから退出シーンと合わせているシーンがあるのだけれど、それが考えさせられるものだ。たぶん、シーンの演出から考え、そしてあとから言われる「現実のほうが俺にとっては痛々しかった」というセリフのことを考えると、いわばレスラーで戦うということと、いわば自分が生きるために戦うということは何なのかということを臭わせている。そして、もう一つとして、いわばリング上の「善玉」と、現実社会における「悪玉」というのをクロスさせている(最後のシーンで戦う相手が、戦いの打ち合わせの前に、ビジネスの話をしていることからも、そのクロスがあることを示唆している)し、そしてこのレスラーが「アメリカ」の代表として対比される姿は、いわばこの映画が「9.11」以降に作られたことを意識させられる。

 そういう小難しいことを抜きにして、要するにこの映画の「レスラー」が象徴しているものは「求められぬことの孤独さ」みたいなものなのだ、という風にも言えるだろう。「好きの対比は嫌いではなく、無関心である」といったようにだ。気軽にリングに立たせてもらうという言い方をするけれども、そもそもリングに立たせてもらうということ自体が、非常に大変なものなのであるということを、忘れてしまっている。リングに立とうとするのだけれども、拒絶される。しかし、その拒絶というのが、単純に「可哀想」であるのではなく、むしろ「過去の不摂生が祟ってツケを支払わせられた」という印象のように描いているのは、単なる同情ではなく、そういう風に生きるしかなかった彼への、乾いたような「仕方なさ」を示唆するのにはぴったりだ。

 だから、これは「レスラーであった人の物語」というよりも、「レスラーとしてしか生きれなった男」というほうが正しいと思う。つまり、そこにあるのは消去法である。それは、いわばレスラー、あるいは人生なネガティヴな側面であるということを考えさせられる映画でもある。

『レリジュラス ~世界宗教おちょくりツアー~』(2012) :: なぜか「善き信仰のかたちとは?」みたいな余計なことを考えてしまう

 また宗教モノのドキュメンタリー映画を見ていた。これはAmazonのリンクがなかったので、Google Playのムービーから購入するなりレンタルするなりして見るといい。

 この映画は、明確に狂信的な宗教的態度に対して、ちゃんとノンを突き付けようという、至極真っ当な提案と、そもそも経典を一字一句その通り解釈するような人たちは、実は心の底では終末論、つまり「世界の終わりなど来ちゃえばいいのに」という、そういう欲望を持っているんじゃないか、というオチになっている。一応、副タイトルに「おちょくりツアー」とは言っているんだが、実はそれほど「おちょくり」とも思えなかった。というのは、主に物語を進めていくこのレポーター自身が、そもそも「神を捨てた」という体験の人達であり、あるいはバチカンや、いわゆる穏健派の人達にとっては「いや、あれは科学の本ではないし、今と時代は違うからね」という話をしていて、逆に「あれ?」みたいな気持ちになった。もちろん、「天国はここよりもいいところなんだ」というのに対して「じゃあ死ねよ」というのは、凄くヒヤッっとすると同時に、一つの覚悟なんだろうなという気もしている。

 しかし、これはちょっと危険なところもある。もちろん、宗教と政治を分離するといったこと自体は賛成だが、しかし果たして、ここに出てくる「分別のある人」というか、いわば「神などいない」とする無神論者(ちなみに、神はいるかどうかはわからない、は不可知論者と言うんだとか)が、いわば狂信的態度を逃れているかどうかは疑わしい。過去の映画のときにも書いていたし、例えば科学的な「差別」の歴史なんていうのもあるわけで、そのあたりのまとめについては下の本に詳しい。

 

人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)

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  変な話なのだが、「黒人のゲットーの犯罪率は高いから燃やしてしまえ」というのも、それはそれで狂信的な態度なのではないか、と個人的な心情としては思ってしまうわけで、そこらへんをちゃんと考えないとフェアではないな、という感じはどうしてもしてしまっている。

 それはこの映画の些細な欠点でもあるのだが、やはり全体的に面白いなと思うのは、人はここまでして真実でなければ信じるに値しないと思っている、ということだ。要するに、「神はいる」と思っていなければ「信じるに値しない」と思っているし、聖書の物語も事実でなければ、信じることができないということだ。だから、彼らは「それがおとぎ話でしょ?」という、それこそ素朴な感想に対して「本当にあったのです」と頑なに言うのだ。実は僕も聖書はちょっとだけ読んだことがあるんだけど、別に実際にそのことがなかったとしても、普通に話として面白いこともあるし、それは別に事実であろうがなかろうが、たぶん神の言葉であるならば、その価値は減らないんだけど、どうしても実在してもらわないと困るらしく、なんだかそういう人が多いのに関しては「へー、そうなんだ」みたいな感じで映像を眺め続けていた。つまり、多くの人々にとっては、実は「信じる」ということと「事実である」ということには、境目が無いっぽいようなのだ。

 で、また「私たちは寛容的な人達だから、異教徒でもモスクに入れるんですよ」といったあとに、前から「あいつのトークつまんねえんだよな」といっているシーンとかがあって、なかなか皮肉が効いているなと思ったりする。で、この構造ってのは、実は『アホでマヌケな大統領選』という映画にもあって。

 

 この映画はユタ州を舞台にしている。ユタ州は、モルモン教徒達が追われて「ここなら大丈夫だ」ということで建てられた州であり、「寛容」を持ってして布教することを美徳としている、という説明が来る。入口にあるのは「Family City」というわけで、穏やかそうなのではあるが、しかしマイケル・ムーアユタ州の大学で講演に呼ばれることで波乱が生じるみたいな話である。あれ、ちょっとまて、お前らの「寛容」って何処にいったんだ?

 そりゃ、誰にだって矛盾はあるわけなんだけど、なんだかんだいって偉そうなんですよね。「我々は寛容だから、異教徒も入れるんですよ」というのに対して、「それ自分で言いますかね」とか「私たちは争いをしないんですよ」とか。なんかね、鼻持ちがならないわけですよ。実は「俺がキリストなんだ」というぶっとんだ人や、大麻教会というように「ぶっとぶことを旨とした」人も出てくる。だけど、彼らを攻撃しないのは、彼らは彼らなりに排他的とは言いづらいからなのだろう。要するにリベラルってやつだ。

 僕の知人にも、いわばネット住民には評判の悪い新興宗教系の友人がいる。正直にいうと、普段の生活はそんな変な人ではなく、むしろ勤勉な善き市民でもあって、気のいい奴であることも認めている。しかし、一方で、やはりそこには一定のラインというのがあり、そこを踏み越えようものなら(というか、僕はできた人間ではなので、踏み越えては怒られたりする)、烈火のごとく怒っては、そのことを謝ったりする。その不思議さである。

 最初の言葉にも出てくるけれど「あなた達のように賢い人達が、こんな滑稽な話を信じているのか?」という話なのであり、もっというならば、「あなた達のような賢い人達が、なぜそんな傲慢な態度になれるのか」、つまり「お前らが同性愛は罪だとかそういうことなんで言えるの?」というそういう告発でもある。だからこそ、最後に出てくるのは謙虚なのだという気がする。

 さらに言ってしまうと、実は「おちょくる」ことが本義なのではなく、実は「おちょくりあうことが出来る関係」こそが、一つの健全な関係なのではないかということも示唆している。そういう意味では、逆説的のように、実は「善き信仰とは何だろうか」という、別に敬虔な教徒でもない俺がそういうことを考えさせられる作りになっているという意味で、悪趣味な笑いと共に、変に真面目な顔をしてしまうような、そういう巧みな感じが、この映像にはあったような気がしている。