『人生に乾杯!』(2007) :: なぜこれほどまでに「悪いことが起きねーな」と安心して見られる映画なのか
だいたいのエンターテイメントというのは、だいたい主人公が頑張って、そして窮地に陥り、その状況を打破する。そういう一連の仕組みになっていると思う。それが如何に作り物であったとしても、いつのまにか主人公の動向を見守り、本気で心配し、そしてほっとする。
だから、物語の性質として「悪いことが起きる予兆」というのは、カタルシスを届ける上で重要なんだと思うんだけど、この作品は――少なくとも僕にとっては――一切の「悪い予兆」を感じることがなかった。なんだろう、安心して老夫婦の行方を眺めていられる作品でもある。もちろん、ラストのシーンはひやっとしたけど、それでも「一本取られた!」と思うだけだった。
話の筋としては、安い年金暮らしで過ごしている老夫婦二人。生活も思うままにならず、些細ないい争いも増えてしまう中で、銀行強盗に入る。それは、残り少ない人生を楽しむために、という感じ。
俺は大好きだけど納得しないぞ、ハゲ
老人同士の格差というのは、実は若者の格差よりも是正されない。なぜなら、老人になって頑張ろうといったところで、差がついてしまっているからだ。そうすると、そこで固定されてしまって、一生そのままということになる。さらに、息子が妻が先立たれてしまうとゲームオーバーの可能性もある(だから我が国の生活保護受給者は老人のほうが多い)。
で、そういう中で、この老夫婦の行動というのが周囲に対して影響を与えていくという姿はとてもいい気持になる一方で、どうしても気になることが一つだけある。それは若者はどう考えているかということだ。
もちろん、この映画の中では、強盗老夫婦を追いかける二人のカップルがいる。このカップルはある重大な契機に差し掛かっている。そういうときに、この老夫婦は若者に対して需要なアドバイスをする。これは、本来ジェネレーションというもので隔たれた二人が接近した瞬間でもある。
そして、なぜ俺がこの話をするかというと、実は老人と若者の対立項って嘘なんじゃないんだろうかと思うのだ。現実には、この対立は存在するのだが、しかしこれは本来たぶん偽の問題体系で、本当ならお互いに歩むための壁が作られているに過ぎない。
そう考えると、この作品の、確かに老人主体である部分はブラボーと思うものの、ではそれを眺めている若者たちはどう思っているんだろうと考える。いや、ちゃんと共感するシーンもあるんだけど、それだとなんか弱いかもね、とは思う。
もう一度、人生を
ケンタッキーの創業者は、40歳からその事業を始めたという。どうも僕もそうだけど、どんどん歳をとっていくにつれて、なんか可能性を束縛されてしまっているような、そういう気がしてくる。そういうのが閉塞感になっていたりする。
俺が好きな作品の傾向として、やっぱり「いつ始めてもいいんじゃないの」といってくれる作品がわりと好きだったりする。というのは、自分がやれなかったことが多くて、「まだ今から始めても大丈夫だろ」って肯定してもらいたいと思うからだ。もちろん、それで迷惑をかけることがあるけれども、でもそっと背中を押してくれる作品というのは、たぶんいいものだ。
正直、この作品に出てくる人々はお人よしだし、バカだと思う。お前ら、強盗に入られているんだぞと思う。なんかのんびりとしていて、それがなんだかリアリティないという人もいると思う。それはこの映画の欠点だと素直に認める。だけれども、逆に言うんだったら、老いを肯定することは、これくらい能天気であってもいいと、俺は甘く見てしまっている。
ちなみに、この映画を見ながら考えたのは、下の小説だ。合わせて読む機会があれば読んでほしい。