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シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『クローバーフィールド』(2008) :: 悪意と怪獣の幸福な関係

 

 

 なんだかんだいって、怪獣というのはかっこいいものである。街を破壊する悪役でありながら、いつのまにか応援してしまっているような対象として、そこにいるように感じる。だから、例えば「怪獣を、その怪獣に襲われた一市民としてカメラで撮った場合、どうなるのだろうか?」という問いを立ててみても、ピンとこないだろう。『クローバーフィールド』というのは、いわば「ブレアウィッチプロジェクト」でたくさんの模倣者がでた、あの「ホームビデオ風映画」の一つだ。

 そりゃ市民から見たら、怪獣に襲われるだなんて怖いだろうわな、というのは想像できるし、パニックになってわめきだす人も現れる。だけど怪獣ってかっこいいものじゃんとも思うんだけど、この映画の怪獣は全くそういうところがない。だいたい悪意。たぶんパニック映画というのは、状況が進むについれてどんどん追いつめられていくほうが面白いよなと思うんだけど、そういう「これやられると最悪だな」と思うところをどんどん投入してくる。その様子は見てくれればわかる。

 ホラーというのは状況が不明確だからこそ怖いというのがある。怪獣が襲ってくるということ自体、その当事者にとっては意味不明なものだ。宇宙侵略であるとか、あるいは宇宙の生命体とか、適当な理由をつけて納得する場合が多い。それは僕たちが映画の観客(あるいはテレビの観客)として、全てを知りうる立場にいるからに過ぎない。それを当事者に合わせてみてみると、本当に「なんで俺たちがこんな目に合うんだ」ということにしかなりえないのだ。だから、これを見終わったあとに、「あの怪獣って実は政府が作った兵器なのではないか?」とか、「実は二体いるんだ」とか、そういう話が各ブログで謎ときとして出てくる。

 でも実はこの謎とき行為自体が、実はこの映画の当事者になってしまったことを現している。自分も正直、もやっとして、見終わったときに、謎解きブログを漁ってしまったが、実はこれが典型的な、怪獣に襲われた市民の反応であることは疑いようながないだろう。途中で臨時の病院みたいなのが立てられていたけれど、そこでこういう話が行われていただろう。それを含めて、そうい映画なのだと思いながら見るととても楽しい。

 ちょっとまとめておくと、怪獣映画のもつ畏怖の対象としての怪獣を、ただ襲われる側の恐怖として特化するというのは、実はありうるようで無いと思う。それを一市民の視点として書いたとき、それが如何に不条理な対象であるのかということをはっきりと理解できるという構造になっている。

 また、もう一つの褒めるポイントとしては、最初の設定として「あるホームビデオの上書きテープを使っている」という演出がかなり効いている。最後まで見たとき、この作品をほめることになるだろう。それほどまでに完成度が高い。

 ただし、これについては、正直裏表なんだよなと思うこともある。それはどういうことかというと、昔のアニメでもあったけれども、全体的に謎をちりばめておく=理由の不在がこの作品の面白さではないという点なのだ。だから、これを勘違いしてしまうと、このチームがでっち上げたといわれる「aladygma」みたいになってしまう(詳しく知りたい人は個別で調べてほしい)。これは「謎」を与える側や、「謎」を解く側として勘違いすることだが、決して「謎」が面白いのではなく、「理由が不在であること」が何を意味しているかということのほうが遥かに重要なのだ。

 だから、今も作られているのか不明だが、『グローバーフィールド2』は難しいだろうなと思う。最初に作られたこのハードルを越えることはかなり難しい気はする。そもそも、怪獣映画が持ち合わせていた潜在的な問題を炙り出したものだからで、続編を作ったところで、そのフレームから逃れられるのは難しい。しかし、そういう「理由の不在」を離れて、グローバーフィールドを見るとき、これが奇跡的なバランスで生み出されていることについて関心するだろう。そういう意味では、深く心に残る作品になるだろうと思うし、事実、僕の中ではそういう映画である。