シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『ニュー・シネマ・パラダイス』(2005) :: これは映画の話ではなく、僕たちが接してる「メディア」とは何かを巡ったお話なのだ

 

ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 [DVD]

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 優れた作品というのは、その作品が語るジャンルを超えて、他のことを語ると思う。

 『ニュー・シネマ・パラダイス』とは、映画に見出された若い少年と、ベテランの映画技師との友情と、映画館をめぐり、そして映画そのものの歴史を楽しく見せる。しかし、『ニュー・シネマ・パラダイス』が素晴らしいのは、ただ単純な「映画」とはどういうものなのかだけではなく、そもそも僕たちがメディアに対してどういう風に接しているということかということも意識させてくれる。

 物語の筋は語らずにあえて本題だけ言う。具体的な映画のシーンとの対応は語らないが、『ニュー・シネマ・パラダイス』を見ればわかると思う(事実、最初に張られたこの伏線は、最後において綺麗に完結する)。

 映画の何らかのシーンというのは、別に90分や120分の中の、たった1分のシーンではない。確かに絶対的な時間量から見ればそうなのだが、しかし映画の89分というのは、たった最後の1分のシーンのためにある場合もある。いや、それは言い過ぎかもしれないけど、映画のシーンとはそういうもので、1分のシーンが無ければ、89分が成り立たないように、その有機的な関係こそが映画の総体を作っている筈だ。事実、その有機的な関係を理解できない牧師は、映画というものを下種で退屈なものとしか見れないだろう。そもそも「作品」というもの自体、ある部分を削ればいいやとか、そういうものではない筈だ。

映画への態度こそが、世界への態度を反映する

 写真をペラペラとめくることで、モノが動いてみえることが発見され、そして無声映画から、映画に音がのり、色がつき、そしてテレビとラジオがつく。大衆に根付いた娯楽のキングは、テレビとラジオが現れることによって、そのキングの座を終了する。それは、一つの地方映画館の歴史が同時に映画の歴史を物語っている。

 さらに、陳腐なメディア論ではあるが、監督の映画への暖かい目があると同時に、映画への厳しい視線があることにも気がつく。映画というのは、ある意味において、世界とはどういうものかを写しだす鏡だ。僕たちは映画を通じて、怪獣や、宇宙船や、戦争や、そういった世界への想像力を鍛えてくれる側面がある。そういうところに映画の魅力は確かにあるのだが、しかしそれは映画というメディアの都合によって生み出されるものだ。したがって、ベテランの映画技師の厳しさ、そして愛のある拒絶(拒絶にも愛があるのだ!)は、少なくとも映画だけに留まることがどれだけ詰まらないことなのかも十分に承知している。その詰まらなさは、逆に若い映画好きの少年が育った街の詰まらなさに若干似ているだろう。

 また、このベテランの映画技師のキャラクターがとても良い。たぶん、普通に考えたら牧師が、いわば外見上は「街一番の教養のある人間」であるだろうけれども、このベテラン映画技師の、「世界を見る目」に比べると、それは全く見かけ倒しであることに気が付く。少なくとも、彼が引用する映画の名セリフの含蓄の深さは、そこに含蓄があるということに気が付ける人間にしかしゃべれないものとして存在している筈だ。それは、不幸な事故によって視覚を失っても、確かに彼は「世界を見ている」。

 筆が乗ってきたので、もっと変なことを言うと、僕たちがメディアに接することによって、一つには世界への接し方を学ぶといってもいい。極端な話、それが「見る」ということだ。もし、僕たちが「世界との接し方」を自発的に考えられないとするならば、そもそも僕たちは何も見ていないし、聞いてもいない。それは映画を何百本見ても同じことだ。問題は量なのではなく、それが内在している接し方の問題なのだ。

 だから、これは同時にテレビが娯楽としてキングに君臨し、そして今目の前で没落する傾向にあることと無関係ではない。ちょっとラジオのことがこの映画で出てくるので、それにからめると、バクルスというイギリスのバンドは『Video Killed the Radio Star』を高らかに歌った。1979年の事である。全てのメディアは、君臨したと同時に、そこから没落が始まる。その没落に対して、良きにしろ悪きにしろ、愛着を持つのが、ノスタルジーだ。ノスタルジーは、あるときに帰ってくる場所であって、留まり続けるところではない。

そして、僕たちはインターネットというメディアを手に入れた。

 きっと、僕たちが接しているインターネットというのも、そのうち、映画がテレビに、テレビがインターネットに、その立ち位置が変わりつつあるのと同じように、インターネットも同じように変わっていくだろう。この映画のベテラン映画技師の立ち位置とは、きっと今の「映画」というメディアの立ち位置そのものである。そして、何歳で映画を見始めるにしても、映画の前に立てば、この映画の11歳の少年と同じように、そしてベテランの映画技師が隣で座っているかのように、なれるんだと思う。

 インターネットというメディア(いやもっと言うと単純なメディアでもないことは十分承知だ)は、だんだんとテレビとラジオの娯楽的な装置の意味を削りつつある。それは、テレビやラジオが映画という娯楽の意味を削りつつあるようにだ。そして、映画が世界を見るための鏡であったと同様に、テレビやラジオも世界を見るための窓だった。インターネットも同様にそうだろう。しかし、同様にこうやって文章を書いて、他の映画の感想を読むことが、果たして本当に世界を読めているのか?と疑問を持たなくちゃならない。僕たちはインターネットで記事を書いたり、記事を読む以上に、「世界の書き方」や「世界の読み方」を学ばなくちゃならない。

 僕も、ベテランの映画技師のように、引用して締めくくろう。この言葉は、あたかも僕に言われたかのようだった。

 「お前は私よりも盲目だ」