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シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『ガタカ』(2013) :: 僕たちの「不可能であること」の可能を考えるのだ

 

ガタカ [DVD]

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 近い未来のお話。遺伝子操作を受けずに育った兄と、医者の善意により遺伝子操作を受けた弟。兄は将来、宇宙飛行士を目指すことを夢見るものの、遺伝子検査が隅々まで広がっている未来では、兄は何処にいっても「不適合者」という診断しかされない。それでも、宇宙飛行士になることを夢見る兄は、不幸な事故により選手生命を打ち切られてしまった水泳選手と出会うことになる。兄は、その宇宙飛行士になりきるのだが……というお話。安直に言ってしまうなら、この映画はディストピアを題材にしている。ディストピアは「理想の国」と対比されて、「理想状態であるが、それが悪夢である世界」のことを指す。

 さて、この映画の模範的な感想というのは「遺伝子で差別されるような世界ってやっぱりよくないよねー」という話になるだが、しかしこれは困難な問題なのだ。もともと、こういう生来的な特徴によって、人間の優劣を決定するような考え方を「優生学」という。典型的なこの考え方は「ユダヤ人は人種的に劣っている」という、ナチスのプロパガンダだ。しかし、人種で判断することはただの非科学的な問題でしかない。問題は、それが科学的に徹底されるとき、果たして抗いきれるのかという問題だ。残念なことに、この「優生学」のモチーフは、なんども歴史上反復され、そして僕たちの心の中にひっそりと忍び込んでいる。例えば、そのあたりについては下の新書を参考にしてほしい。 

優生学と人間社会 (講談社現代新書)

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 だから、この裏側にあるのは、決して「遺伝子で判断されることの是非」ではない。実は、恐ろしいことを言うかもしれないが、たぶんこの世界での問題は「遺伝子審査」ではない。それに対して、ある態度が結びついているからこそ、遺伝子差別があるのだ。それは何かというと、「確率的な話」を「各個別の未来」として抽象してしまうことの短絡性だ。それはたぶん、僕たちが「科学」というものと接するにあたっての態度の問題である。

 ごく単純な説明をしてみよう。例えば、目の前にいかさまダイズがあるとする。6は1/2で出る。そして、他のダイスは1/2を抜いた1/5を分配しているとする。そのとき、僕たちが次のダイスに出てくる出目を「6」と考えるだろう。それはすごく正しい。しかし、実際にこのいかさまダイスを振ってみると、「2」とか「5」とか出てしまう。つまり、各種の確率は、ある試行の結果を保証するものではない。あくまでも、確率は、その試行の全体的な集合を統計的なばらつきとしているに過ぎない。

 だからこそ、その確率論的な考え方よりも、その人の個別性の問題になるであり、事実、この『ガタカ』という映画は、個別性の問題になっている。そして、映画を見ていて気が付くことがある。それは、この映画が「確率論的な世界」で見ることの盲目性だ。どういうことかというと、遺伝子の審査を通して見ることが、そもそもその個別性を見ることが出来ないというモチーフであることに気が付く。(例えば「あいつらは顔なんて見てないさ」というセリフを見てみよう)

 さらに述べておくと、この世界における「確率論的な見方」というのは、実は「奇跡」というものを排除しないのだが、しかし「確率論的な判断」は「奇跡」を排除する。この映画には二つの「奇跡」が存在している。片方は主人子の奇跡であることは間違いない(女性にちょっとだけ彼に言われる言葉を思い出そう)。しかし、その裏側には、もう一つの悪い意味での奇跡である。それはこの映画の事件と関係している。その事件が解決したとき、まあ犯人は誰かはわからないけれど、この会社が強度の遺伝子判断を行い、その中に「暴力的傾向がある」という診断があったことを思い出してみよう。そうすると、実は「確率論で見る」という推測自体が盲目性を持っている。それを排除して物事を見ることにより、刑事は事件の真相に近づく。もちろん、刑事は彼の正体を暴くような動きをするわけで、それで錯乱されてしまうのだが、しかし、最後の最後でそれは味方になる。

 統計の歴史を語るにおいて、人々を束ねて数量化できるという発見を前提としているわけだが、それは今日のインターネットにおいては、例えばAmazonにおける「レコメンド・システム」(この本を読んでいる人は、他にこの本を読んでいますという奴だ)であったり、あるいはログを集計することによって、よりWebサービスを最適化しようとする「ビックデータ」と重なりあっていることに気が付く筈だ。いや、そんな複雑な話をしなくてもいい。そもそも「いい大学に行って、いい就職をしなさい」という判断自体が、実は確率論的判断の誤謬を含んでいるとさえ言える。

 しかし、とはいえ、いくら「確率的にありうる」としたところで、それが「起きたこと」を証明しないといけない。少なくとも、「不適合者」である主人公が、このエリート達と一緒に肩を並べていること自体が、「起きたこと」を証明する。少なくとも、セリフとして「不適合者が、肉体と頭脳はついていけるはずがない」という話をするのだが、しかし事実、それを見てしまった。「ありえないことがありえる」というポジティヴな効果は、周りにも波及する。だからこそ、この兄と、エリートを約束された水泳選手の友情は、「不可能な物事に賭けることの価値」を教える。

 この映画の題材は、実は遺伝子とかそういうことではない。「僕たちが不可能と考えていることとは、いったいどこからやってきているのだろうか」という、大局的な問題だ。そもそも、僕たちが「可能である」ということを挫いて、「できっこないよ」と思ってしまう、その問題だ。僕自身は安直に「できっこない」と思うことが、悪いことではないとは思う。僕もそういう人間だからだ。だけれども、そのポジティヴさは、主人公が心の底で、無意識に思っていた「できっこない」ということを達成させられていたことを自覚する。つまり、主人公ですら、「僕にはそんなものは与えられていなかった」ということが、実は自分の思い込みだったことを教えられる筈だ。これは、「不可能であるということ可能にする」を考えることの困難と、その美しさを教えてくれる映画なのだ。