シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』(1997) :: 死のために、生という光を放つ

 

ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア デジタルニューマスター [DVD]

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  余命幾ばくしかないと宣言された患者二人が、末期病棟で出会う。もう一人は、その素性から肝の据わったチンピラであり、片方は人のいい男だ。ある晩、酒を飲み交わしながら、天国で天使たちが海の話をしていることを言う。そこで、人のいい男が、実は今まで海を見たことがないことを告白する。海を見に行くために、ギャングの車を盗み、強盗をする。そして所々でオシャレをし、ホテルに泊まったりする。

 たぶん誰しもがこういう風に自問し、そしてどうするべきなのか考えているような鬱屈した問いを抱えていた時期があるかもしれないとも思うけれど。それは、「俺が明日死ぬかもしれないと言われたら、今やっていることは、それに値することなのだろうか」ということだ。もちろん、そんなことよりも数年生き続けるほうが可能性が大きいんだけど(自分を含めて「30歳までに死ぬと思ってた」という人は、だいたいこんな感じでヘラヘラ生きている)、とはいえ、僕たちが「生物」である以上、生物であることの終わりはやってくる。

 とはいえ、「死ぬことを自覚して生きろ」なんていうのが出来たら苦労はしないだろう。僕を含めて、多くの人々は「死ぬこと」を忘れて生きざるを得ない気がするし、「明日死ぬとしたあどうする?」なんていう質問は重すぎてどうしようもない。そもそも、「明日死ぬ」に値する生き方というものをちゃんと天秤にかけられる人のほうがまれであるだろう、と思う。映画自体は、「海を見る前に精一杯生きる」という明るさに満ちている。しかし、片方の男は、道中、たびたび発作で倒れこむ。そのシーンは正直恐怖を感じるといわざるを得ない。露骨にそういうシーンはないけれど、たぶん片方の男も、その発作を起こした男を見ることによって、「死につつある」ということを嫌でも自覚したに違いない。

 さて、そこでこの映画を語るまえに、バタイユという思想家を紹介しておく。

バタイユ (学術文庫)

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  通俗的な紹介をすると、バタイユは「生きることとはどういうことか」ということに関して、「エネルギーを消耗しつくすこと」という定義を与えている。太陽は自分の寿命を削りながら、木々や動物や僕たちにエネルギーを与えている。もちろん、それ自体は太陽にとっては関係ないことだが、しかしこれは僕たちが「生きている」ということと無関係ではないということを考えていた。僕たちも、自分の寿命を削りながら、エネルギーをまき散らし、周囲にとってポジティヴでもネガティヴでもそういう効果を生み出す。

 だからこそ、この映画はむしろ「死」ということが逆説的に解放する「生」の問題である。そして、その「生」があるからこそ、最後の「死」のシーンが美しい。あの恐怖を感じさせる発作が、最後のシーンによって、美しく感じる。そういう相互関係として、この映画は存在している。「僕たちはどうせ死ぬんだから最強だろう?」といったようなセリフで始まるこの物語は、むしろ僕たちが「死なないかもしれない」ということについて、「生きることが持つ強いエネルギー」を抑圧しているのかもしれない。

 バタイユ自身はどちらかというと、グロい作家だから、この映画のトーンと比較すると違う印象を覚えるかもしれないけれど、たぶん根っこにある問題は似ているかもしれない。

 最後のギャング達との会話は「死」に対するユーモラスと、それに続くシーンは美しさを持っている。暗い題材ではあるんだが、この映画は本当に明るい映画だ。少なくともこの二人組は悪い気持ちがしない。例えば、ギャングが持っていた100万ドルの行方を見届けてみよう。彼らはすぐに死ぬわけだから、そんな大金を持っていても仕方ないのだ。だから、彼らは独特の使い方をする。それは実際に映画を見て見届けてほしい。また、彼らの最後の望みもかわいいものだ。

 確かに、「海」というモチーフは、「最期」という象徴になりやすいということは指摘されている。しかし、もしかすると、むしろ「海」そのものよりも、「海がこの先にある」という確信なのだ。最期のシーンで見える風景がそれほど美しくないと思うかもしれないけれど、しかしその絶妙な風景は、「生」のもつ、荒々しいエネルギーを感じざるを得ない。