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シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『スティル・クレイジー』(1998) :: 「みんなで一緒にやる」ということを考える

 

 栄光の絶頂にいたバンドは、ライブ会場の稲妻を受けて解散してしまう。あるとき、コンドームの自動販売機を補充していたキーボードが、偶然音楽プロデューサーと出会う。それを機会に、かつての音楽を取り戻すために、バンドを再結成すとるために、皆を集める。もちろん、各人は既に自分の仕事を持っていたが、バンドを再結成するために集まる。しかし、そう簡単にはいかず、バンドは問題ばかりだ。とりあえず、頭数が集まったバンドは、その実力を取り戻すために、欧州ツアーに生かされるのだが……。

 この映画を見ていると、バンドの解散理由としてよく揶揄される「音楽性の違い」というものが、いったいどういう音楽性の違いなのか、ということを感じさせる。実はこのベースとヴォーカルは仲が悪く、いつも喧嘩している。ベースはいつも、ヴォーカルのことを見かけ倒しだというんだけど、それは本人も自覚をしていて、それにうじうじ悩んだりしている。こういう口の悪さは、自分も良くやることだから、反省しないとなと感じた。

 この映画が面白いのは「各人の成長がそのままバンドの成長につながっている」という構成を持っていることだ。例えば、バンドの中心である、ベースとヴォーカルのいがみ合いなんかがそうだ。彼らは彼らなりの音楽に対する価値観を持っているからぶつかり合うし、その曲を認められないということになってしまうわけだ。しかし、物語が進むにつれて、いがみ合っていた二人が、例えばヴォーカルがベースに妥協するようになったりするところなどは見事だ。

 そして、「再結成」という構成上、仕方ないのかもしれないけれど、この映画が「過去への決別」ということを裏テーマとして持っていることにも気づかされる。それの代表的な存在が、このバンドから抜けたギタリストの存在だ。このギタリストは、バンドの信頼が厚かった。故に、どうしても彼との比較が生まれてしまう。従って、それが時に揉め事の種になってしまう。

 僕はバンドというものをやったことないけれど、たぶんこうやって集まって何かをやろうとすることは、きっと一人でしかできないからやるんだと思う。もしやりたければ一人でやればいいんだけど、それでは限界があることもわかっている。だからこそ、一つの音楽を目指して集まってくるんだけど、やっぱりそこは「クレイジー」という感じで、あまりにも各人の我が強すぎて、自分の意図通りにならない音楽になったりすると喧嘩してしまう。それは結局のところ、自分の音楽を作るために周りを従わせるだけのエゴにすぎない、と感じさせるところが多々あって、なるほどなと感じさせてくれるし、それが険悪な雰囲気だったりすると、二度と関わりたくないと思わせるかもしれない。

 という意味では、これは「70年代ロックバンドの物語」という感じでいわれることかもしれないけれど、どちらかというと、「誰かと何かをやるということはどういうことなのか」ということをすごく考えさせられる映画だとと思う。それは、どちらかというと変なところで我をはらなかったり、自分にできないことは人に任せたり、窮地に陥った誰かを貶めるんじゃなくて、手助けすることだ。

 そういう意味では、これはあのときのまま、成長が止まってしまった「バンドがまた成長するための」物語であると考えるなら、やっぱり「まだクエイジー」なのである。