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シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『ファースト・フード・ネーション』(2006) :: なぜ牛は逃げなかったか

 

 国境をわたり、移民してくるメキシコ人。彼らの働き先は食肉工場。その一方で、ハンバーガーのパテに糞が入っているという報告を受けたファーストフードのマーケティング担当は、調査に乗り出すっていう話の筋なんだが……。

 これ嫌な映画ですよ。最後まで見ればわかるんだけど、これ救いようも何もない。そりゃ現実社会の救いようのなさを描いているのだから、結論というか、カタルシスが無いのは当然なのだ。だからといって、ただ嫌なのではなく、わりと淡々とした、真綿を締め付けていくような不愉快さといったらいいのだろうか。なんだろうなー、段々と選択肢が無くなっていく感じの不愉快さ。たぶんクソみたいな現実というのに慣らされていくというか、諦めさせられていく感じの不愉快さ。最期の映像はショッキングではあるもので、苦手な人は苦手かもしれないが、それ以外はむしろ精神的にジリジリ来るだろう。そして、この映画を見て「俺の命ってパテ何個分なのか」とか試算した人は多いに違いない(俺だけ?)。

 メキシコ密入国者の生活も、例えば食前酒を勧められたときに聞き取れないのとか「あー」とかになるし、たぶん注文についても、ファーストフード的な作法を暗に示している可能性もある。また、密入国者を入れる人が、良い人扱いになっているところも、なんていうか密入国者の統制方法という感じがあってよい。まだ逃亡しようとすると射殺されるシーンとか、奴隷のようにこき使われるシーンとか、給与の殆どを取られるとかがないだけマシということも出来るんだけど(たいてい密入国者って足を見られるもんじゃないのかなーとか思うんだけど、そこは本題ではないのかな)。

 ただ、一つだけ、ネタバレを出来るだけ避けながら、でも重点的に取り上げたいシーンがある。

 ファーストフードで働いていた女の子が牛を逃がそうとするシーンのことだ。方法はフェンスの一部を切り取り、そこから逃がそうとする方法なのだが、思惑通りに牛たちは逃げようとしない。なぜ牛は逃げなかったのかについて、周囲と話したりしていた。曰く、「牛は柵が見えていなかったのだ」といってみたり、あるいは「牧草地の中が居心地が良かったのだ」といってみたりする。このシーンは、この映画を語る上において重要な点を貫いている。つまり、「私たちは逃げ出すことを選択できるのにも関わらず、なぜ逃げないのか」と。これは意図的な象徴のように感じられる。

 たぶん、「ファーストフード」に国民の生活を委ねない方法は、実はあるのだけれど、なぜそれを抜け出すことができないのか、という問いに転換することが出来るだろう。実は各人はとっくに「ファーストフード」に依存することの歪さについては十分承知である。少なくとも作中に出てくる登場人物の殆どはその歪さに気が付いている。つまり、ファーストフードの歪さを自覚していたところで、「それはそれ、これはこれ」ということになってしまう。つまり、「牛は逃げなかったのはなぜなのか」という問題は、そのまま「どうしてファーストフードに依存することの歪さを理解しているのにも関わらず、それを辞めることが出来ないのか」という問いそのままなのだ。

 とすると、作中の「牛」が象徴的に何なのかもわかって来る筈だ。この映画は、現代社会において、あるシステムの生産体系から脱出することを考えることの困難さを、ファーストフードの生産体系で再現しているともいえる。とすると、実はファーストフードの生産体系こそが、既に目の前にあるディストピアなのだ、という観点から見てみても、面白いのかもしれない。