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シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『インスタント沼』(2009) :: まがった釘を宝物にできるための訓練としての映画

 

インスタント沼 ミラクル・エディション [DVD]

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 めっちゃいい。めっちゃいい(二回目)。

 これ凄くいい映画なんですよ。独白で進む手法とか、あるいはちょっとしたギャグパートが若干うざいかもと思うんだけど、ちゃんと話が進むにつれて調子が出てくる感じは割と好き。

 話の筋をちゃんと解説しておくと、雑誌編集で働いている主人公。心霊現象などを全く信じないものの、だんだんと不幸が続いていくうちに、これは何かの祟りかと思い始める。一方で、唐突に池へと入って溺れてしまう主人公のお母さん。お母さんの救出と共に、出てきたポストの中には、主人公の本当のお父さんがわかった。そのお父さんがやっていたのは骨董品屋だった……。

 ちょっと寄り道をしておくと、僕が影響を受けた思想家に真木悠介という人がいる。この人はヒッピーカルチャー出身の人で、たぶんお父さんの造詣がヒッピーなのも、この文脈に近いのかなあという気がする。で、その人が書いている本に、下のような本がある。

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

 

  この本の中に、「彩色の精神と脱色の精神」というエッセイがある。脱色の精神は、簡単に言ってしまえば分析的な理性のことであり、そして彩色の精神とは、つまるところ、好奇心といった類のものだ。分析的理性は、どんなものに対しても、その意味を解体するのに対して、彩色の精神は、むしろ些細なものに対して意味を付随する。

 たぶん、これはどちらによるものでもないのだが、しかしあまりにも脱色的な理性が突出すると、余りにも日常の些細なものの「面白味」というものを消してしまう。例えば、この映画では「蛇口をひねってみろ」というのが出てくるんだけど、「あーなるほど!そういうことか」なんていうことが出てくる。つまり、使い方次第なんだということに気が付かせてくれる。

 とすると、共感を持って見れる分岐点は、作中で出てくる「まがった釘をいいって言ってくれる人が友達」というところに現れるし、この映画の評価に一番近いんだろうなという気がする。もし、「まがった釘の素晴らしさ」について共感できなければ、たぶんこれはわからない。もちろん、この骨董品の人みたいに熱弁できなくてもいいけど、「そういう感性がわかるなー」と思う人は共感出来るはず。逆にいうと、そういう意味ではカップルで見るといいのかもしれない。

 正直、映画はナンセンス(=無意味)に近いものだけれど、そこにある眼差しはむしろそのナンセンスのセンスについて気が付かせてくれるという映画になっている。恐らくは、見えるものが見えるようになったということが最後のシーンなんだろうなという気がする。この感性は、映画を離れても持っていけるものだし、それを知っている人(つまり、その感性を沼に沈めてしまった人)は、見るべき価値のある映画だ。というか、最初の沼のシーンというのは、そういうものの象徴なんだろう。