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シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『ララピポ』(2009) :: 根本的に「人を映す」ということの難しさを感じさせてくれる映画

 

ララピポ [DVD]

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  俺には無理でした。すいません。少なくとも自分には苦手でした。

 で、興味ある人は映画を見てくれればいいんだけど、すごく考えさせらるのは、その描き方の画一性なんですよね。たぶん、「こういう人達もいるんだよ」っていうのを描きたいのは十分にわかるんだけど、その「こういう人達」っていうのが、自分たちが持っているイメージの一歩も出なければ、それって意味ないなと。特にここで出てくる人達って、僕が思う「こういう人ってこういう感じだよね」みたいなところから一歩も出てくれない。単純に、自分の脳内にあるイメージをそのまま投影されているだけで、しかもその投影の感じも意地悪い感じじゃないのね。普通、そういう偏見って直視するのが気持ち悪かったりするでしょ。「お前ら本当は偽善ぶってるけど、本当はこういう好きでしょ?」みたいなの。そういう映画もあるんだけど、そういう方向でもない。とすると、それをなおさら物語で再確認することって何だろうという気持ちにもなる。さらに言ってしまうと、各主人公には、それぞれ代表的のような事件が起きるわけなんだけれど、その事件の立ち位置も良くわからない。たぶんその事件って、何らかの形で主人公が消化して、変わるにしろ変わらないにしろ、何らかの消化した話というのがある筈なんだど、それがわからないから、後日談を見せられても「あれっ」って思ってしまう。

 これ難しいなと思うと同時にはっとさせられるんですよ。要するに、「いろいろな人がいる」って言ったときに、自分たちが想像したような、そのものの人がいることって、「いろいろ」にはならないんだって。僕も色々な人に出会う機会に恵まれて、そして話を聞いたりしたことがあるんだけど、そこのところに感じるのは、そのイメージに収斂されないような複雑性というか意外性があるなあ、と。それは、そのイメージを徹底したものであれ、あるいはイメージを裏切るものであれ、自分の脳内の中から抜け出すものがあるな、と。そういう風に感じられたとき、「あ、いろんな人がいるんだ」って気が付かされる。そういう、枠に収まらさというのが、小難しい言葉でいうと「他者」というものなんだろうけど。そうしたときに、この映画で、「あ、これすごいな」って思ったのはロリイタ服を着た少女。彼女は良い意味で、イメージを裏切ってくれるんだけど、他の人たちはそこがなくて。

 で、この教訓っていうのは、要するにイメージを語ることで、物語にしてしまうことの退屈さみたいなのを考えさせられてしまう。「今どきの若いものは……」ということで始まる説教が凄く退屈なのと一緒だ。だけど、この「説教」がおっさんにとって魅力的な語りであると同時に、イメージで語ることの快楽っていうのは確実に存在するし、そもそもイメージを語ることをまだ知らない人達にとっては新鮮かもしれない。この作文もそういうもので、こういう風に偉そうに書いている僕が、他の人のイメージを破れているかは、甚だ疑い深いところはある。だけど、その難しさを意識するが故に、この映画を見たときに、「あ、やっぱり難しいんだ」って思ってしまう。いい映画を見てると、そういうイメージを易々と乗り越えてくれるんだけど、それって一つの才能なのであって、少し気が緩んでしまうと、一気に「あ、それ見たことあるよ」という形になってしまう。で、それは「あるある」という、共感と仲間意識みたいなものを感じさせてくれるものではない。

 だから、この映画はお勧めしない。とはいえ、確実に頭の中で描いている「人はいろいろいるよね」という、その「いろいろ」がどれだけ狭くて窮屈なものなのか、ということについてすごく意識させられたのは間違いなかった。