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シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『ジーザス・キャンプ』(2006) :: ビンラディンに憧れて

 

  この映画は、アメリカにいる「宗教右派」の活動、特に福音派が子供を集めて行っているキャンプの内容についてのドキュメンタリーというのが要約なんだけど、どんな映画でも、カメラが持つ何らかの「眼差し」こそが、その映画の内容みたいなものだ、ということを考えると、この映画の不思議さというのは、基本的には「こいつが悪者だ」ということを明治しないということだ。この映画は、どちらかというと事実というか、記録の羅列のような印象を与えるのは確かで、この映画が意図したいことは、「何を見せたいか」ということの間接的な表現に現れているように感じる。だから、ふとすると、単に福音派の紹介ビデオみたいな印象を与えるかもしれない。

 確かに、このドキュメンタリー映画をみていると、いわゆるこの教義に慣れ親しんでいる人であるならば、「うわ」と眉を潜めるかもしれないし、明確にトランス状態を作り出して熱狂を煽り(映像ではトランス状態とは言わないんだけどね!)、そして「洗脳」しているという形の部分に目を惹かれるかもしれない。事実、その話は「左派クリスチャン」である人が、映像の最後でコメントする通りだ。

 しかし、この映像のポイントはそこにあるのではない気がする。というより、その気持ち悪さを見て攻撃するだけでは、何も解決しないどころか、むしろ彼らは「我々は攻撃されている」という意固地な状態に陥るということも、なんとなく理解しているように感じられる。だから、この映画はびっくりするほど、ただ見て、ただ聞いているという感じなのだし、たぶんそういう役回りの人は他にいるとわかっていて、それをしていないように感じる。ちなみに、そういう話は、日本の新興宗教の話であるけれども、下の本に書いてあったりするので、その内容自体は陳腐でありながら、「あ、やっぱり」と感じさせてくれる。

からくり民主主義 (新潮文庫)

からくり民主主義 (新潮文庫)

 

  このドキュメントを見ていて、まず「むむ……」と思わされたのは、実は彼らにとって、実はイスラム過激派というのは憎悪の対象であると同時に、無意識的には憧れの対象だったのではないか、ということだ。というのも、彼らはイスラム過激派が、子供の頃から銃や手りゅう弾に慣れ親しんでいるという話を聞き、私たちキリスト教も同じように、命を捧げるところを見たいと語るところに顕著であるように感じる。つまり、このキャンプというのは、兵隊が行うようなキャンプということもできる。もうちょっと言っておくと、彼らが住んでいる世界というのは、「彼ら」の世界にも似ているように感じる。つまり、権力者が積極的に情報を閉ざし、自分たちの都合のいい情報だけを享受する(進化論を否定するくだりはまさにそういう感じを受ける)。で、そこまで噛み砕いてみると、実は自分たちとはこの問題は無関係ではないということに気が付く。

 そして、もう少し考えてみよう。実はこの映像には、僕たちが普通キリスト教と言われて思いつくある文句みたいなものが出てこない。それは「汝、隣人を愛せ」だ。もしかしたら、そういう説教をしていたのかもしれないし、細かく見ていけばそういう映像もあるかもしれないけれど、しかし、その話が一瞬あったとしても、多くの場合は、明確な憎悪でもある。そして、その憎悪自体も、敵と裏表だ。

 そういう風に考えるなら、この映画が単に「カルトこわーい」という映画だけで済ませられない何かがあるということに気が付く。そういう意味で、なんだか不思議な気持ちにさせられる映画でもある。