シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『クレイマー、クレイマー』(1979) :: 親のエゴみたいなものを子供のエゴで見たら?

 

  そういえば、自分の親も離婚したなあ、なんか思いながら見ていた。たぶん、この映画って「親」としての目線を見るか、「子供」としての目線から見るかに違うのかなあという気がするんだけど、自分は子供の視点から見ていたんだけど、そこから見ると、一種の親のエゴみたいなものを書いているのかなという気がする。

 話の筋としては「父親が仕事人間で家庭のことを顧みなくて、母親がそれに病んじゃって子供を置いて飛び出してしまう。父親は育児に奮闘する」という話なんだけど。で、この父親がね、とても嫌な奴なんですよ、最初は。要するに「自分の仕事が上手く行っているんだからこれからハッピーになるぞ」ということを押し付けてくるわけですよね。で、自分の父親とか思い出すと、要するにこれって「自分は家族に対して、仕事を通じてハッピーにするぞ」にするという態度なんだな、と。で、この歳になると、その感情はわかるんだけど、じゃあその一方でどうなんだ、みたいな気持ちもあるわけですよ。で、ちょっと気になる処としては、一つの軸として「仕事」というものがあるわけですよね。例えば母親側が自信を取り戻す結果というのは、仕事なんですよね。

 で、だんだん面白くなっていくのは、育児の為に仕事の比重が、父親からどんどん削られていくところなんですよね。物語として、父親は仕事の中で凄く重要な立ち位置を与えられていて、そこに使命感を覚える。だけど、それがちゃんと子供を中心として変化していく様子というのが、その周囲の関係性と、仕事での振る舞いで現れていく。で、またこの「育児と仕事」の両立という目線自体、しかも男性が慣れない育児に奮闘するというのが、如何に社会の無理解さによって支えられているのだ、ということも考えさせられる。会社からすれば、そりゃ「家庭の事情」と「仕事」を混合してはいけないというのもわかるんだけど。

 またね、その「無理解さ」っていうのが、法廷シーンで明らかにされていくわけですよ。「いや、それ聞いちゃダメでしょ」みたいなのを二人でやったりする。これは「子供がどっちを養育するか」って話なんだけど。父親のほうも、「手元に子供を育てたい」というわけで、仕事を探すのに奮闘するあたりとかも、なんだかそれはそれで親のエゴだよね、っていう気持ちはある。これは、いわゆる「男性」が「父親」になったときに、さらに残ってしまうのは「親のエゴ」なんだよね、という話。

 で、この構造っていうのは、母親側にもあるんですよね。で、この母親側もすごく良く分かるわけですよ。つまり、この父親が抑圧側に動いてしまって、それで自信が破壊されたみたいなことを言うわけなんだけど、それも、いわば社会反映なんですよね。だから、一度自信を取り戻されなければならなったというのもすごく良く分かるんだけど、それは、いわゆる「親」としての自信というか、矜持ではないわけですよね。要するに、何処か後退しちゃっている感じがある。でも、父親側のほうは、親としての役割をなんとか頑張って果たそうとする、みたいなその対比が余計痛々しいわけですよね。それは、母親側の親友の態度に現れれているわけですね。

 だから、最後のシーンって、言ってしまえば「親のエゴを超えるということはどういうことか」みたいなことなんだと思うわけですよね。つまり、親が子供と向き合うこと、みたいなことを考えたりしている。もちろん、父親は行動的には子供を中心とした態度になっているんだけど、そこを離れさせるといったときに、やっぱりそこを出られないし、それを出ることが良いかといっていうと、そうではなくて。例えば、法廷に負けるから、とにかく仕事を決めるってシーンがあるんだけど、「そこまでやられるとちょっと……」って思うんだけど、でもそれが親のエゴなのかもしれないなとか、そういうことを感じるわけで。

 だから、変な話なんだけど、「親が喧嘩していた子供」とか、あるいは親にあんまりいい感じがしてなかった、かつての子供が、そういう部分を見るという部分はとてもいいなあと思ったりもする。