シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『レリジュラス ~世界宗教おちょくりツアー~』(2012) :: なぜか「善き信仰のかたちとは?」みたいな余計なことを考えてしまう

 また宗教モノのドキュメンタリー映画を見ていた。これはAmazonのリンクがなかったので、Google Playのムービーから購入するなりレンタルするなりして見るといい。

 この映画は、明確に狂信的な宗教的態度に対して、ちゃんとノンを突き付けようという、至極真っ当な提案と、そもそも経典を一字一句その通り解釈するような人たちは、実は心の底では終末論、つまり「世界の終わりなど来ちゃえばいいのに」という、そういう欲望を持っているんじゃないか、というオチになっている。一応、副タイトルに「おちょくりツアー」とは言っているんだが、実はそれほど「おちょくり」とも思えなかった。というのは、主に物語を進めていくこのレポーター自身が、そもそも「神を捨てた」という体験の人達であり、あるいはバチカンや、いわゆる穏健派の人達にとっては「いや、あれは科学の本ではないし、今と時代は違うからね」という話をしていて、逆に「あれ?」みたいな気持ちになった。もちろん、「天国はここよりもいいところなんだ」というのに対して「じゃあ死ねよ」というのは、凄くヒヤッっとすると同時に、一つの覚悟なんだろうなという気もしている。

 しかし、これはちょっと危険なところもある。もちろん、宗教と政治を分離するといったこと自体は賛成だが、しかし果たして、ここに出てくる「分別のある人」というか、いわば「神などいない」とする無神論者(ちなみに、神はいるかどうかはわからない、は不可知論者と言うんだとか)が、いわば狂信的態度を逃れているかどうかは疑わしい。過去の映画のときにも書いていたし、例えば科学的な「差別」の歴史なんていうのもあるわけで、そのあたりのまとめについては下の本に詳しい。

 

人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)

人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)

 

  変な話なのだが、「黒人のゲットーの犯罪率は高いから燃やしてしまえ」というのも、それはそれで狂信的な態度なのではないか、と個人的な心情としては思ってしまうわけで、そこらへんをちゃんと考えないとフェアではないな、という感じはどうしてもしてしまっている。

 それはこの映画の些細な欠点でもあるのだが、やはり全体的に面白いなと思うのは、人はここまでして真実でなければ信じるに値しないと思っている、ということだ。要するに、「神はいる」と思っていなければ「信じるに値しない」と思っているし、聖書の物語も事実でなければ、信じることができないということだ。だから、彼らは「それがおとぎ話でしょ?」という、それこそ素朴な感想に対して「本当にあったのです」と頑なに言うのだ。実は僕も聖書はちょっとだけ読んだことがあるんだけど、別に実際にそのことがなかったとしても、普通に話として面白いこともあるし、それは別に事実であろうがなかろうが、たぶん神の言葉であるならば、その価値は減らないんだけど、どうしても実在してもらわないと困るらしく、なんだかそういう人が多いのに関しては「へー、そうなんだ」みたいな感じで映像を眺め続けていた。つまり、多くの人々にとっては、実は「信じる」ということと「事実である」ということには、境目が無いっぽいようなのだ。

 で、また「私たちは寛容的な人達だから、異教徒でもモスクに入れるんですよ」といったあとに、前から「あいつのトークつまんねえんだよな」といっているシーンとかがあって、なかなか皮肉が効いているなと思ったりする。で、この構造ってのは、実は『アホでマヌケな大統領選』という映画にもあって。

 

 この映画はユタ州を舞台にしている。ユタ州は、モルモン教徒達が追われて「ここなら大丈夫だ」ということで建てられた州であり、「寛容」を持ってして布教することを美徳としている、という説明が来る。入口にあるのは「Family City」というわけで、穏やかそうなのではあるが、しかしマイケル・ムーアユタ州の大学で講演に呼ばれることで波乱が生じるみたいな話である。あれ、ちょっとまて、お前らの「寛容」って何処にいったんだ?

 そりゃ、誰にだって矛盾はあるわけなんだけど、なんだかんだいって偉そうなんですよね。「我々は寛容だから、異教徒も入れるんですよ」というのに対して、「それ自分で言いますかね」とか「私たちは争いをしないんですよ」とか。なんかね、鼻持ちがならないわけですよ。実は「俺がキリストなんだ」というぶっとんだ人や、大麻教会というように「ぶっとぶことを旨とした」人も出てくる。だけど、彼らを攻撃しないのは、彼らは彼らなりに排他的とは言いづらいからなのだろう。要するにリベラルってやつだ。

 僕の知人にも、いわばネット住民には評判の悪い新興宗教系の友人がいる。正直にいうと、普段の生活はそんな変な人ではなく、むしろ勤勉な善き市民でもあって、気のいい奴であることも認めている。しかし、一方で、やはりそこには一定のラインというのがあり、そこを踏み越えようものなら(というか、僕はできた人間ではなので、踏み越えては怒られたりする)、烈火のごとく怒っては、そのことを謝ったりする。その不思議さである。

 最初の言葉にも出てくるけれど「あなた達のように賢い人達が、こんな滑稽な話を信じているのか?」という話なのであり、もっというならば、「あなた達のような賢い人達が、なぜそんな傲慢な態度になれるのか」、つまり「お前らが同性愛は罪だとかそういうことなんで言えるの?」というそういう告発でもある。だからこそ、最後に出てくるのは謙虚なのだという気がする。

 さらに言ってしまうと、実は「おちょくる」ことが本義なのではなく、実は「おちょくりあうことが出来る関係」こそが、一つの健全な関係なのではないかということも示唆している。そういう意味では、逆説的のように、実は「善き信仰とは何だろうか」という、別に敬虔な教徒でもない俺がそういうことを考えさせられる作りになっているという意味で、悪趣味な笑いと共に、変に真面目な顔をしてしまうような、そういう巧みな感じが、この映像にはあったような気がしている。