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シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『ファニーゲーム U.S.A』(1997) :: 自分を映し出す鏡としての映画

 

ファニーゲームU.S.A. [DVD]

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  『ファニーゲーム U.S.A』は、平穏な三人家族に対して、殺人鬼がやってくるというもの。この映画は、ダイレクトに暴力シーンは描かれない。殺されるシーンや、痛みを与えるシーンは丁重に「画面に映らない」ようにしている。

 ファニーゲームは、よく言われるように「メタ・シネマ」の性質を持っている。「メタ・なんちゃら」は「自分自身に言及する作品」という形で使われることが多い。例えば、「メタ・フィクション」ならば、「フィクションに言及したフィクション」だ。なぜこの手法が使われるようになったかといったら、物語とは「お約束」を無意識になぞるものだからだ。もちろん「お約束」は、その「お約束」であるからこそ、安心して見られたり、あるいは作品に対して快楽を得ることができる。

 とはいえ、例えば「ファニーゲーム」は、サイコホラーというジャンルなのだということができるだが、そもそも、そのお約束が明確に僕たちが自分たちの持つ暴力なるものについて「反省しないこと」を可能としているし、そもそもいちいち「その暴力表現を楽しんでいる僕たちは、そもそも殺人鬼と変わらないかもしれない」みたいに不安を煽ってはならない。だから、普通なら、ディスプレイの向こう側で人を殺している人間と、僕たちは別物である、という風に意識させるような作りになる。それをどうふうに外していくかというところが面白さでもある。

 しかし、最近の作品を見ていて気が付いたのは、そういう「お約束」を述べる作品というのは、お約束を踏み外しながら、そのジャンルが望むような役割を果たそうとしているということだ。ホラー映画の役割とは、そもそも「人を不愉快にする」ということであるとするならば、この映画では「お前はどう思う?」という、いわば事件の当事者にされることであるということだ。だから、僕が見た限りでは、二つのシーンで、犯人が視聴者に対して話しかける(明確に僕たちに話しかけるように描写しているのだ)。また、映画が「記録装置」であることを利用した演出も用意されている。

 もう一つ述べておこう。この映画の犯人の異質さに言及するとき、そもそも何かの事件に対して「理由」を求めているということだ。これはネタバレになるけれども、象徴的なシーンとして、片方がどういう境遇かの作り話を言うシーンがある。それはそもそも、殺人において「気がくるっていた」という理由において事件を納得させるという仕組みをうまくついている。例えば、ポルノにしても、なぜか最後でラブラブになるというオチが着くやつがあるのもそういうのだ。

 そして、もう一つの悪意があるとするならば、そういう「理由のなさ」こそが、僕たち視聴者が、その作品を接するさいの「鏡になる」ということだ。つまり、この不愉快さの根源を突き詰めようとしたときに、抱いている偏見なるものもあぶり出されてしまう。事実、「ファニーゲーム」の感想ブログを見たときに、見事なまでに、各人の「見方」というのが反映される。そして、それは実際のところ三面記事を見て、ワイドショー的にあーだこうだ言う私たちの醜さと鏡になっているということができる(ほら、さっそく俺の偏見があぶり出されてるでしょ?)。

 もちろん、この映画がそもそも「ホラー」というものが、お約束の連続になっているということを皮肉ったものでもあるという言い方ができるが、この映画が秀逸なのは、その「お約束」こそが、心理的な防壁になっているということを実感としてわかるという作りになっているということだ。そして、その「心理的な障壁」を取っ払ったとき、真の意味での不愉快さみたいなのが露出する。そこに、真のホラーがあるというわけだ。