シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『ダークナイト』(2008) :: 既に古典的になりつつある現代的なヒーローの主題

 

ダークナイト 特別版 [DVD]

ダークナイト 特別版 [DVD]

 

  ヒーローの定義自体は、人によってそれぞれだと思う。けれども、たぶん一般的には、ヒーローの定義というのは「善きを助け、悪を挫く」という一文に現れると思う。以前ならば、そのような二項対立で良かったのかもしれないけれど、しかし「悪にも悪なりの言い分があるのではないか?」という問いが出現した。そして、さらにいうと、「そもそも僕たちが規定している悪とは何か、そして善とは何か?」ということを、少なからず考えなくてはいけなくなったように感じる。少なくとも、この問いを迂回するヒーローというのは、余程「おバカな(もちろんほめ言葉)」作品でない限り、欲求不満になる気がする。そして、「善いとは何か?悪とは何か?」という問いは、もはや古典的なヒーローとしての問いのような気もする。それはどんな娯楽作品であったとしても、だ。

 そういう意味では、『ダークナイト』というのは、普通に楽しい映画である。何しろバンバン殴ったりするし、バンバン爆破する。そしてカッコいい機械、そして魅惑的な悪役。どれを取っても、「これがエンターテイメントだなあ」という気持ちに溢れると同時に、「悪とは何か」という問いにも満ち溢れている。それは、逆説的に「善とは何か」について照らし合わせる鏡になる。それは、単なる「悪と善」という対立に飽きてしまった人々にとって、大切な問いだ。

 僕はそれほどバッドマンシリーズのことを知らない。というよりほぼ知らないといってもいいだろう。単純に「あれ、そういえばロビンっていう奴、この映画ではどこにいるだっけ?」くらいの知識である。バッドマンは、昼間には活躍せず、夜に活躍するヒーローであり、日々悪事と戦っている。しかし、この映画では、その強靭なるヒーローに、まさに狂人を思わせるヒーローが現れる。それがジョーカーだ。

 題名が物語っているように、一つのベクトルとして「昼と夜」の対比がある。バッドマンは、その正体を明かすことができない。というのは、「バッドマン」の「善さ」というのは、全く手続き的には正当なものではないからだ。最終的に「悪」を倒すとはいえ、それは社会的に見れば「私的な暴力の行使」に過ぎない。従って、正義感の若き検事が現れたとき、「光のヒーロー」がいれば、バッドマンはいらなくなるというエピソードが出てくる。

 もう一つ重要なのは、「信用する」というキーワードが出てくるということだ。実は映画を見ていて「ジョーカー」がなぜルールを守るという確信を持っているのかという確信が、正直わからないけど、人間というのはそういうものだろう。というより、このあたりが実は重要な仕掛けになっていて、「ジョーカー」が言うことが、そもそも「ルールを守る」という心理を逆手に取っているといってもいい。だから、もし二回目を見るときは、ジョーカーの立場から見るのも面白いかもしれない(ちょっとだけネタバレを含めるけど。最後のスイッチをもしどちらかが入れていたら何が起きたのか考えるのは面白いだろう)

 あともう一つとして、ツーフェイスの存在もあげられるだろう。この存在が余りにも唐突であるように感じられるというのもあったけれど、「光と闇」には、必ず夕方と朝という中間的な存在があることを示唆している。そもそも、ジョーカーが示唆しているのは、「悪と善というのは、実はお互いに共存している」という状態なのではないかということだ。事実、ジョーカーが突きつける言葉は、バッドマンがいるからこそ、悪が際立つということを示唆している。

 影を作らないように光源をあてることができないように、強烈な光のところには、強烈な闇が存在している。もちろん、この比喩を善と悪についてそのまま適用することはできないだろう。しかし、そのような印象を与えるこの映画は、それによって、娯楽的な楽しみを満たすと同時に、話にコクを与えているのも事実だと思う。