シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

『アメリカン・ビューティー』(1999) :: 自分たちが演じようとしているこの人生っていったいなんなんだ

 とても哀しい映画である。見終わると同時に、ぼろぼろと涙を流してしまった。恐らく、少し酔いながら見ていたせいもあるかもしれない。蛇足だけど、最近はときどきウィスキーを飲むようになったのだが、これは映画を見始めてからの影響かもしれない。

 『アメリカン・ビューティー』は、ある家族の物語である。話の中心は、その家族の父である。この父は広告の仕事をやっているようだが、いつも無気力で、娘と妻からはダメ呼ばわりされている。妻は妻で、不動産で家を売っているのだが、大手業者が入ってきて、思うように売れない。娘は、ちょっと悪い女友達と付き合っている。新しい隣人もやってくるのだが、隣人にやってきた男の息子は、その娘を盗撮したりしている。

 『アメリカン・ビューティー』の物語は、かなり不愉快なものである。例えば、先ほどいった、主人公に値する「父」は、娘の友達に恋をし、さらには欲情してしまう。それってロリータコンプレックスだよな、と思う。正直、若すぎる女の子に欲情してしまう性癖は仕方ないと思うものの、「抱ける」と思ってしまうところは「ちょっとくらいブレーキかけろや」と思ってしまう。

 また、隣の息子が、ずっとビデオを撮り続けるのも、病的なものを感じざるを得ないだろう。事実、この映画でも「サイコ」だと罵られている。

 ただ、この映画の不思議な点は、そういう、ふと「これって病的なのではないか」ということと、「これが健全なんだ」というのを反転させるように作られているということだ。どういうことか、というと、この映画における「健全性」とは、なんらかの抑圧によって作られているということをあぶり出そうとするからだ。うわ、精神分析的だね!

 正直、隣の男はあんまり社会的であるとは言い難い性格である。しかし、彼がビニール袋をとったビデオを娘に見せるときに語るセリフが印象的だ。ここは、僕の好きなシーンなので、転載してみる。ちなみに、そのセリフとは「それぞれのモノには生命と慈悲の力があって、何も恐れることはない。美しいものに溢れていて、僕は圧倒される」という言葉だ。

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 うん、俺もビニール袋をつい撮影してしまう人間だからわかる!でも死体はあまり好きけど!

 あと、もう一つとして、娘の友達に恋をし始めたときに、父が「俺の人生、こんなんでいいんだろうか?」と奮起し、周りの言いなりであったところに、ちゃんと自分のやりたいことを押し始めるところは、それを素朴には肯定はできないが、しかし「それはそれでありかもね」と思わせる。いつかは死ぬわけだしなあ、と思うし。

 さて、この「病的」に対応する「健全」とは何だろうか。それは恐らく、「娘の母」と「息子の父」だろう。「娘の母」は、一生懸命自己啓発の音声を聞き、成功者になろうとする。そして、娘にも「最後に頼れるのは自分だけ」という。しかし、この映画を通して、この「母」はとんでもなく孤独な存在であることを明らかにしている。つまり「成功者はこうであるべき」というイメージのせいで、逆説的に自分自身を追い詰めている。

 「息子の父」もそうだ。息子に対し、折檻を行い「自己構築と規律が大切だ」ということを教える。そして、ゲイは最悪だということを教える。しかし、この行動自体もまた「自分がこうであるべきである」ということによって抑え込んでいる何かであることは明らかだ。

 だから、最後のシーンにおいて、誰が何をするのかということを追いかけるといい。見事にこの「病的さ」と「健全さ」が反転するのが最後の展開であることは間違いない。病的な人間のほうが明らかに良心的な行動をするのだ。そして、健全であるはずの人間が、明らかに異常な行動をし始めるのだ。僕たちは病的な人間に対して、病的な振る舞いを期待するが、必ずしもそうではない。(とはいえ、世間一般的にはそう思わせるんだけどね)

 たぶん、この映画は「アメリカとは何か」「家族とは何か」という問いと一緒に語られるものであるかもしれない。しかし、むしろこの映画が教えてくれるのは「健全であろうとすることによる代償とは何だろうか」ということである。 僕自身も、自分に対する理想像は高いほうなので、結構自分がボンクラであることについて、すごく落ち込んだりすることもある。しかし、その「理想像」によって、何を失っているのかは考えてもいいかもしれない。

 しかし、だからといって「自分らしくあれ」ということは全く陳腐である。なぜなら、「自分らしくあることの代償」を、息子と父はそれぞれ「自分らしくあろうとすること」によって代償を支払わされていることも示唆しているからだ。だから、その点においても、この映画は風刺的であると同時に、誠実であるように感じられる。

 そして――もし、これが、俺の父の感じていた孤独ならば、俺は少しだけ父を許せるかもしれないなと思う。もちろん、俺の父は日本人だけどね。