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シネマ・リハビリテーション

30歳になって感性が変わったのか、映画が見れるようになったので、せっかくだし、作文以下の感想を書いていきます

テッド(2012) ::「大人になるためには失わなきゃいけない」なんてデタラメ信じるなよ

 見終わった後に「ああ、俺の考えていたことと一致するな」と思う映画って意外と少なくて、でもそういう映画って変な方向からひょっこりと現れたりするから不思議なものだ。何はともあれ、そういう数少ない「一致するな」と思う映画がゆるふわ不良中年のぬいぐるみが暴れまくるこのテッドだったりするから、世の中不思議なものだ。

 この映画の主題は単純だけど明快で、要するに「大人になるってどういうことだ?」という、分かりやすいけれど、それでも近代や現代において迷走しやすいテーマを扱っている。で、ともすればこういう主題ってつまんない結論に落ち着いてしまう。それは、「子供のときの未熟さを切り離さなければならない」っていうあの恐ろしくて退屈な結論。でもさ、それって嘘じゃんっていうのをキッチリとわかって作っている。

 いやー、この監督もそういうやつらの顔付きにウンザリしていたんだろうなってのがビンビンに伝わって来る。あの手の人たちのつまんなそうな顔つき。アレはアレで「大人じゃねーよ」っていう感じは十分に伝わって来る。

 とはいえ、単純にじゃあ「未熟な自分を抱えたままでいい」と肯定しないところが、物語の(そして、もしかしたら「映画」の)いいところだ。物語には時間軸があって、そのために明確になる主題が一つだけある。それは「一度失ったものを取り戻すことは、それが最初から手にあるときと違うものである」っていうこと。これを伝えるのは、こんな感想文ごときじゃ難しいんだけど(そして実はジジェクとかがこの感想文の1000倍くらい労力を費やして議論していることだが、これは余談だ)、でもそれが「大人になること」の条件だっていうのは十分にわかる。

 この映画のいいところは、全ての登場人物にとって「大人になることというのはどういうことだ」ということを突きつけている点にある。もちろん、『フラッシュ・ゴードン』(感想文には書いてないけど、あれもくだらない映画だった)の役者はメタ的な位置にいるので(というより、彼はある意味で「彼の未熟さの象徴であると共に、大人になるために手放してはならない象徴」として描かれている。ちょっとネタバレになるけれど、最後の最後において、彼が「大人として」迎える儀式の一つに立ち会っているのは、彼がそういう象徴として描かれていることの証明でもある)、これは例外なのだが、だいたいがそういう「未熟さ」の現れとしている。

 だから、このぬいぐるみの所有者であるところの彼女の上司ですら、「高校生の頃からこうなのさ」という肯定感でしか生きられないということは、結局会社で成功していても、それが「大人ではない」ということが明確にわかる。むしろこういう嫌な上司がみじかにいたのかな。まあいいや。

 一瞬、この映画は「ははーん、これは80年代を埋葬するための映画なのだな」(フラッシュゴードンは80年代に作られた映画だ)と思うのだけれど、いい意味で裏切られた。むしろそうではなくて、ちゃんと80年代を大切に生きていった人たちに送る映画なのだな、と思った。むろん、俺は先に『フラッシュ・ゴードン』を見ていたから、なんとなくわかったけど、見ていない人にとってはなんのこっちゃ、みたいな置いてきぼりになる可能性は高い(たぶん、その置いてきぼり感が、あまりいい評価を得ていない部分でもあるんだろう)。

 とはいえ、そういう文脈をおさえることができるならば、この映画は「未熟さ」を単にばっさりと切り捨てるのではなくて、そういうのを大切にするということについて、一回その未熟さを手放して、さらにそれを「取り戻す」ことだ(この作業が大切なのだ)、ということを教えてくれる意味で、素晴らしい映画なのだと実感するのであった。